ホウチガブログ

~方向性の違いでブログ始めることになりました。~

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〈1096.いいね、わるいね、よくないね〉

9月27日。

 

FacebookTwitterでよく見る投稿。心温まるエピソードやちょっとしたサプライズ、あるいはスポーツ選手の試合外での様子など。
そういう他人の、でもちょっと明るくなるような話。

なんでわざわざ食ってかかるコメントをするんだろう。

 

 

例えばインターネットエクスプローラーを開いて最初に出てくるニュース、Yahooとかでも多分同じだろう。ぶっちゃけニュースにするほどでもないような、ほとんどどうでもいいような話題でも、丁寧に怒った顔文字を送りつけて、批判的なコメントをする。

 

もちろん、人によって地雷は違うだろうから頭にくるのはわかる。僕もテニス選手の一場面だけ拾ってくるような記事には心底うんざりすることもある。しかし、コメントするだけ無駄だと思ってほっておくことにしている。
世間が求めるのはそういうネガティブな話題なのかもしれないので。

 

 

しかしながら、ひと様がほっこりした話になんでわざわざほじってネガティブなところをついていくのか。
例えば犬を誕生日プレゼントで送ったとか。大喜びしているお父さんの映像に対して「本人が最後まで育てる決心をしてないところに送られるなんてなんて不幸なわんちゃんなんだ」とか。
うっせえわ。めんどくさい風紀委員か君は。人様の出来事に全部顔を突っ込むな。

さぞかしあなたは素晴らしい聖人なんでしょうな。まったく素晴らしいもんだね。

 

全ての井戸端会議に出席して、批判的なポイントを掘り出していくみたいな。
一銭にもならなければ、いい気分にもならない。いやコメントした本人はいい気になってるかもしれないが。
そういうことをしている人の近くで世間話もできたもんじゃない。そんな話をしたらその人の心労をかけてしまう。話しかけずにそっとしておくのがよろしかろう。
その間に遠くで楽しい話をすればよろしいね。それでみんな平和だ。

 

 

この文章だって、一種の批判になるわけなので不満を感じる人はいるかもしれない。批判する人だって読むかもしれない。
そしたら、ごめんね。批判していることを批判をするということは、自分自身も同じ穴の狢になるということに他ならない。これで最後にしよう。

 

 

別に批判が全てダメだとは言わない。建設的な批判、人格的に尊敬を前提としたコメントが必要である。
だめなとこ探しをするのは違う。形容詞を使うのも危ないぞ。「汚い」というのは人によって程度が違う。より具体的に、今の世界だとより科学的に建設的な議論をする必要がある。

 

批判というのは、そもそも相手の話がなければ生まれないものである。相手へのリスペクトがないというのはなんとも滑稽になってしまう。
常に敬意を忘れないのが大事だね。