ホウチガブログ

~方向性の違いでブログ始めることになりました。~

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〈1113.書くこと、考えること〉

10月14日。

 

昨日の今日なので、色々書くことについて考えた。しかし自分一人で考えても仕方あるまい。これまで読んできた文章術の本を読み返してみた。

 

やはり先人の教えは乞うべきだろう。いろいろすっきりしてきたのでメモしておく。

 

 

読みやすい文章とは、結局のところきちんと論理の整合性が取れているもののことである。これは大学時代のスピーチ原稿の作成でも習ったことだ。

 

前後の文章で議論のすり替えが起こってないこと、論理の飛躍がないこと。つまり、つなげ方・展開の仕方が正しく行われていること。

 

いまでこそなんとなく慣れてきたような気がするが、スピーチ原稿を作っていたときには案外わかってなかったりする。

前の文章では日本の政治の現状を述べ、後の文章で今後の政治の話をする。そのときに同じテーマだから大丈夫だと思い込みがちである。しかし、前の文章で元になった政治思想をベースに現状を分析し、後の文章で一つのゴシップ記事から未来予想を始めたら、ひっちゃかめっちゃかなのはわかると思う。

 

「民主主義のもと、選ばれた議員による横暴はつまるところ市民の横暴と考えられる。〇〇議員は政治資金を愛人との旅行に費やしたが、これは日本の未来が荒廃することを予知する事件である。」

 

我ながらわけのわからない文章になったが、わかりやすい。一つ一つの文章の根拠もなければ、繋がりがおかしいパターンである。

意外とこれが発生するから気をつけて書かないとあかんのよ。

 

 

この読みにくさを回避するためにも、接続詞をきちんと使うことがとても大事なことだと思う。これは修士論文を書いている時に先輩に指摘された。

接続詞があれば、前後で全然違う話をしていることはなくなる。

例えばさっきの例文の一文目と二文目。「市民の横暴と考えられる。〇〇議員は、、、」この間に適切な接続詞はない。話題が全く別のものになってしまっているもの。意外とこれも意識しないと発生してたりする。

正しく繋がっていれば、接続詞は削ってしまっていいときもあるとか。

 

これをわかりやすくするためにも、一段落で主張できるのは一つまでだとされる。スピーチの時に言われました。一段落で二つの話がされると、もうなにについて言いたいのかわからない。

 

 

文章術のうち、個人的に一番困っているのが語尾である。いわゆる断定「である、のだ」などを使うのが怖い。これをきちんと使えるというのは、自信がある話題であるということ。話題に自信があるというのは、きちんと知識があり、なおかつ体系的に理解できているということだ。結局のところ論理的に理解し、表現できていれば断定を使える。

 

もちろんさっきの文章を見てわかる通り、仮に論理的に話題展開できていてと、断定というのは敵を作りやすく、仲間と盛り上がりやすい鋭い意見になる。政治がテーマの新聞記事だと断定が多い気がするのはそういうところがあるんじゃないかしら。

 

 

とまあ、まだまだ考えるべきことはたくさんあるけども、文章化するというのは整理するということだと思った。

物事を整理して、それをわかりやすく伝えるために繋げ直す。モヤモヤしていたものが形を現してくれるのはなかなか気持ちがいいぞ。

 

僕が文章を書くことが好きなのは、整理できるからだと発見しあ。そして整理した中でなにかそれっぽい"教え"が得られるから。これまでの大半の文章がそうだ。日常の気になったことを文章化することで、気になったことを言語化できて、同時に教えを一つ得られる。

書くことは考えることだと1000の文章を書いて行きつきました。