10月25日。
研究に興味のある友人とちょっと話をした。
アカデミックな話題は数カ月ぶりだったからなかなか頭が働かなくて自分にびっくりである。
とはいえ、久しぶりに研究の話をするとちょっとだけうずうずするところがある。自分の研究はとりあえず満足したけども、完全にやり切ったかと聞かれればそうだとは言えない。まだまだ道半ばであるのは間違いない。
。
学部時代のゼミの先生は、研究対象や研究地について、世界で一番詳しくなければならないと口酸っぱく言っていた。大学院の修士課程を終えた今ならわかる。その通りなのだ。
例えば日本の研究をするのであれば、日本全体について世界一詳しくなくていい。そんなの無理だ。そうでなくて、○○県○○市○○郡については世界一であったり、日本舞踊の○○流の△△という型については世界一であったり。規模はとにかくマクロでいいから世界一になればいい。レッドオーシャンの中からいかにしてブルーオーシャンを探し出せるのかが最初期には必要だと思う。そこで事例研究を重ねに重ねて、ようやく概論がわかってくるものである。
それでいうと、修士論文というのはようやく一つの事例が理解できて来たような、そうでないような、半人前な状態に過ぎない。広く理解したかったのに、結局なんだかわからない、次の謎が永遠に残り続けるような。
それが研究生活である。
。
久しぶりにアカデミックな話をすると、この謎に久しぶりに対面することになる。事件について概要は知っているけどオチを知らないコナンの事件に、10年ぶりくらいにであったような気分である。お前そういえばだれが犯人なんだよ、みたいな。
また論文を読み漁って、英語の分厚い本を読んで、専門用語たっぷりの理論書を読んで。そういう生活をする気は毛頭ないけども、分野を変えて同じような「研究」をしたい気持ちはある。
おそらくそれが来年度からの僕の仕事の仕方になる。ひたすら調べまくって、分析して、師匠にアドバイスをもらう。
研究の時よりアウトプットが多くなるとは思う。より多くのアウトプットをするためにも材料となる情報・知識をもっとたくわえなくちゃならない。
そう考えると、アカデミックでなくても、なにごとも研究生活なんだろうな。
。
話をした友人が研究をすることになるのか、はたまた実業的な方向になるのかは僕の知るところではない。
しかしながら、研究の仕方はどうなっても助けになると思う。調べ方、考え方、参考の集め方などなど。そういう意味でも大学院で初心者ながら論文と格闘したのはいい経験だった。
未知の海に漕ぎだすときのお作法を学んだのが大学院だった。来年度に進水式を迎えることになるが、新しい海は大丈夫かしら。