ホウチガブログ

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〈1125.啓蒙書を読んで〉

10月26日。

 

ひさしぶりに啓蒙書を読んだ。
内容はこれまでに読んだ啓蒙書とあまり大差ないのはいまさらのことだけど、それに時間を費やしているのは無駄ではないように思う。
読んだことあるような文章を読んで、無駄ではないとはどういうことか。
キャンプファイヤーのような気分になるということ。

 

 

啓蒙書で書かれているのは、「人格者になるべし」「常に全力で」「人の技術を盗むべし」「本を読め」という耳にタコができるくらいに聞かされてきたことである。
どんな啓蒙書でも大抵書かれていることだから間違いはないだろう。しかし聞き飽きたというのが正直なとこである。あとは自分が頑張ればいいだけですなという確認ができたくらいなもんだ。

 

それが良かったというだけではない。おそらく啓蒙書を書いている人の熱に当てられるのが良いことだと思うのだ。
啓蒙書を書いている人は、自分のことをすごい人だと思っている勘違いの人か、本当にすごいので出版社などから声をかけられた人のどちらかである。
その後者である場合、わざわざ本なんか書かなくても収入があるわけであり、本を出版することによるメリットよりもデメリット(時間が奪われる)のほうが重いだろう。それでも書いてやろうというのは、相当な熱量が生み出す結果だと思われる。


読んでいるうちに、その熱量は読者にも伝播するものである。それがキャンプファイヤーのようなモノじゃないかと思っている。

 

 

キャンプファイヤーの火を見ていると、最初に小さく燃える種火があって、それが新聞紙や枝などに燃え移ってちょっとずつ大きくなる。ところどころに発生した、燃えそうで燃えない新聞などにも熱が伝わると、急に大きな火になる。そういうのを繰り返して、人間よりも天高く燃え上がる炎になる。


啓蒙書には、その小さな種火がたくさん詰め込まれているように思える。その種火を集めて集めて、読み終えた時に自分の中で確かに炎があるような気がする。
しかし、その炎は幻影である。あるように思い込んでいるだけで本物の炎ではない。だから一週間とかしたら消えちゃう。
それを回避するためにも、できたように思える炎に繰り返し種火を入れ続けることだと思う。つまり、読んで得たことを実践すべしということだ。

 

 

大学の学部時代に啓蒙書を読み漁った時期がある。それ以来、幻影の炎がどういうものかは理解できる。しかし、それを実践して本当の炎にするのはとんでもなくパワーが必要である。

結局のところ、それをいかにして行動に落とし込んで、それを習慣にするか。これが大きな課題であるだろう。


習慣にしてしまえばわざわざパワーをかけなくて済む。しかし習慣化するためにパワーが必要なのよ。オリンピック選手にとってその練習は日常だけど、我々凡人にとっては異常事態である。そんな感じ。

 

つまり、ちょっとずつ習慣化するために全力を出し続けることを頑張ろうということだ。
大変だけど、たぶんそれは幸せなことだろうなと思う。そこにはそこでしか見えない世界があるもんね。
見えなくなる世界もあると思うけどもね。