11月3日。
今日は良い子供の日だった。
バイト先の近くでプリキュアショーをやっていた。バイトの休憩時間に遠くからぼんやりと眺めていた。なんともかわいらしかった。
それを大真面目に見つめる子供たちもかわいかった。興奮で立ち上がってキャーキャーする子もいた。かわいいもんだ。
姉の影響で僕はウルトラマンよりも人形遊びが好きだった。小さいときは「おジャ魔女どれみ」「ミルモでポン」ばかりを見ていた。プリキュアが始まったのは僕が小学校低学年から中学年だったので見ることはなかった。それでもちょっと見たい気もしていた。親戚の小さい子が見ているのを横目に、僕はそんなの見ないよと強がっていたのをよく覚えている。小学校2年生ながらプライドが許さなかった。
そのショーを見る観客もやはり女の子ばかりだった。その中でお姉ちゃんと一緒に見る弟ちゃんたちもちょろちょろとみられた。
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プリキュアはジェンダーなどの視点から分析される対象にもなっている。守られる側だった女の子が前線に立つというのは社会の大きな変化であるということだ。「女の子らしさ」「男の子らしさ」について問い直すアニメになったのだろう。「女の子だから奥ゆかしく」「男の子だから元気よく」というのは典型的なステレオタイプとして認識されるようにもなりつつある。時代の変化を投影している作品だといえるのかもしれない。
とはいえ、自分の子供がストレートじゃなかったらどうだ、というアンケートには否定的な意見があるのも事実である。「社会がどう」というのと「身近な人がどう」というのはまったくの別問題なんだろうな。
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僕自身、たびたび考えることがある。
幼稚園の年長になった時のこと。男の子には青、女の子には赤のシールが配られた。その時に、なんで僕は男なのか。女の子ではないのか。そう真面目に考えたことがある。もし僕が赤いシールを無理やりにでももらったら女の子になれるんだろうか。そう考えた。
しかしながら次の給食の時間にはすっかり忘れて青いシールを友達と見せあっていた。
確かに女の子と一緒に過ごす時間が多かったので人形遊びも好きだったし、ウルトラマンや仮面ライダーは暴力的で嫌いだった。とはいえそれだけだった。女の子のようにかわいい恰好がしたかったわけではない。
好きだった人形遊びや絵本を読む時間は、だんだんと友達と外で鬼ごっこをする時間になって、小学生になると人形を持っていることが「男のやることではない」という共通認識の下で生活を送るようになった。
変に思われたくないので、好きだった人形もそのうち視界にいれないようにした。
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ジェンダーの問題は、「男の役割・女の役割」「LGBT差別」などが大きいところである。
しかし、大きい問題に隠れて、日々の小さい悩みもジェンダーによるところがあるようにも思える。
幼稚園から小学生にかけての僕の思いはそこが大きい壁になっていたと思う。「好きなものを好きと言える」環境はなかなか手に入らない。
どんなに政策でもって「らしさの押し付け」や「差別の撤廃」を呼び掛けても、実際の生活ではなかなか実現しない。
現状の生活を円滑に進むことを望む大半の人にとって、既存の体制を大きく変えるのは危険なことだからだ。
この点に関して、僕自身の問題としてはある程度諦めるべきかと思うが、そういう問題から自殺や病気を患う方々がいることは忘れてはいけない。
身近にそういう人がいたり、自分の将来の子供がそういう問題を抱えていたら、きちんと話を聞こうと強く思う。
幸いなことに、僕は一瞬の悩みがあったけどもその後の生活では一切の問題が生じなかった。しかし、ちょっと別の道を歩んでいたら僕自身が壁にぶち当たって苦しんでいただろうと思うからこそ。
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遠くからプリキュアショーを見るとき、僕の中の幼い僕が憧れのまなざしで見つめている。小学生の時、本心ではみんなと一緒に応援したかったんじゃないかな。
お姉ちゃんと一緒に応援している小さい弟ちゃんたち。一生懸命応援してあげてけろ。