ホウチガブログ

~方向性の違いでブログ始めることになりました。~

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〈1204.自由と闘争〉

1月13日。

 

今日からちょっと旅行に行く。
初日の今日は、歴史的な観光地を巡った。
法律的な差別を受け、信じる宗教を堂々と信じることができなかった。そんな人たちの苦しみの歴史の展示物。
そしてそれでもなお信じ続けたことを称える現代的な評価。

教科書のなかの出来事だったけど、それが確かにあったんだなあとようやく理解できたような気がする。
しかし、残る違和感も嘘ではない。

 

 

確かに信教の自由がなかった時代は恐ろしかった。自分が自由に生きることを制限されているんだもの、生きることが苦しいだろう。だからといってそれを信じ続けた結果、死ぬのはどうなんだ。
宗教の話になると、殉教の話題は割けて通れないだろう。神を信じ続けた結果、差別や弾圧を受け、時に死ぬ。
もちろん、自由で死か、不自由で生きるかという問いに対して、自由を選ぶのは非常に西洋的だろう。僕は不自由でも生きることが選択しがちなような気がする。
この観点から考えると、神を信じるという前提のもとに、殉教することを良しとし、その末に自由を勝ち取ることを美徳としている。
もちろん、信者であるならばその前提を疑うことはないだろう。歴史的遺物を展示するうえでもそこを疑ってしまったら成立しないだろう。
そこまでしなくていいのに、なんて思ってしまうのは本質を理解していないのかもしれないです。

 

 

僕は信じている宗教はないので、神を信じるというのがどういうことかわかっていない。
ケニアで入院した時、無宗教ですと答えたけども、まったく理解してもらえなかった。つまり、なにかを信じている人にとっては、生きているうえでなにかを信じることは全ての前提になっているのだろう。
つまり、無宗教になるというのは不可能なのだろう。

歴史的教訓として、自由の弾圧はいけないことだという展示にするのは理解できるが、それでも信じ続けて自由を獲得するための数えきれない死を美しいものだとするのを理解できないのは、平和ボケしているということだろうか。

 

 

展示の一つには、300年前の像がそのまま置いてあった。
その像に向かって、300年前の農民が隠れて祈りを捧げていたらしい。

僕はその像をぼーっと「観光」死ながら眺めている。祈りを捧げた人が無事に生を全うできたのかは知るところではない。獄死したかもしれないし、厳しい拷問の末に命を落としたのかもしれない。改宗したのかもしれない。
その戦いがあったからこそ、自由を享受できているのはそうだろう。

自由なき生に意味はあるのか。そういう問いになかなか出会うことがないからわからないけど、きっといつか参考にしなくちゃいけないこともあるだろう。


そんな時、ぼくはどんな気持ちで像を眺めるのだろう。