ホウチガブログ

~方向性の違いでブログ始めることになりました。~

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〈1110.アルコール・コミュニケーション〉

10月11日。

 

これまで一緒に酒を飲んだことのないようなタイプの人とお酒を飲んだ。
これまで飲んできた人といえば、大学の友達とか地元の友達とかばかりである。社会の波にもまれたような人と飲んだこともほとんどないし、比較的恵まれた環境の人とばかりである。そうなると話題も自然と似てくる。
今日はまったく別のタイプだった。知らない世界があるというのはなんとも面白いものだ。 

 

 

その人は独身の30代のにいちゃんである。イケメンだし、性格も悪くないのに独身である、というのも不思議なもんだ。
しかし、いわゆる独身貴族というものだ。お金はたくさんあるのでそのほとんどをお酒に費やしている人である。その分、年齢の割になかなか良い役割を与えられている、つまり優秀な人だということだ。

その人の冷蔵庫の中は、僕の冷蔵庫の中とか価値が何十倍も違っているようだ。
ほいほいとお酒を出してくれるのはもちろん、一杯で数千円のような高価なものもあれば、生きてる間にはお目にかかることはないようなバケモノ級のお酒も眠っているとか。

そんな貴族の昔話はなかなかおもしろいぞ。許される範囲でメモしちゃう。

 

 

その人はアメリカで仕事を任せられたようだ。しかし、その会社の海外事業というのはばりばりの忙しい仕事で、いわゆる過労死ラインは悠々と超えてくるらしい。その代わり、毎月とんでもなく豪華な飲み会をセッティングしてくれているらしい。
とんでもなく豪華、というのは本当にとんでもない。一晩で500万円が消えるらしい。一枚一万円のステーキ、世界で最後の一本の年代物ワイン。それを社長・副社長が払うそうな。

どこまで本当なのかわからないけど、確かめようもない。僕には縁のない世界の話であることに間違いないだろう。そんな経験をしている人間が田舎町でのんびりリモートワークしているんだからもったいない気がするけども。

 

 

お酒の席というのはなんとも面白い。普段では聞けないような話がポンポンと飛び交う。もう一人の会社員のにいちゃんも営業回りでのお客さんとのバトルを雄弁に語ってくれた。僕は少ない引き出しからセネガルでの話を出した。
みんな少しでも面白い話をしようと勢いをつけて話してくれる。こんな面白いことはない。

そして同時に、見ることはないと信じたいような社会の闇も垣間見ることになる。
漫画の中のフィクションの話であろうと信じたい。知るというのは面白いと同時に恐ろしいことでもある。

 

 

しかしながら飲みすぎた。缶のお酒を10本くらいとグラスで何杯かは覚えているけども、そこから先はまったく覚えていない。
そしておごってもらってしまったようだ。記憶がないんだもの仕方ない。
また今週中に一回は会うだろう。あんなバケモノ体験している人が、世の中にはウヨウヨいるわけだ。

はやく社会人になりたい。

〈1109.フィクション〉

10月10日。

 

円谷英二の伝記を小さい頃に読んだ。特別ウルトラマンが好きではなかったけど、なんでだろうね。表紙のイラストのおじさんがかっこよかったのかもしれない。彼がどんな人生を送ったのか、そのほとんどは忘れてしまったが、どうしても忘れられないページがある。
導入の5ページくらいの話。


ウルトラマンが最初に放映されていた当時の最終回の話だった。ウルトラマンは宇宙に飛び立っていく描写とともに、テレビにかじりついていた少年たちは窓を開けて大きな声で叫んだそうな。「ありがとう!ウルトラマン!」

なぜかわからないけども、少年の僕はそのページはなんども読み返していた。

 

 

不思議だったのかもしれない。ウルトラマンは現実にはいないし、怪獣だっていない。いないからこそ平穏な生活を送れているわけだ。
しかしながら、窓をあけて感謝を伝えたくなる。少年たちもわかっているんじゃないか。ほんとはいないことを。それなのに。

だが、それだけじゃないからそのページを何度も読んでしまったと思う。僕自身、フィクションなのにキャラクターの平穏を祈ってしまうことがあった。


ドラクエ3のエンディング。主人公は故郷を離れ、もう一つの世界を支配する魔王を討伐に出かける。無事魔王を討伐し、もとの世界に戻ろうとするものの、魔王亡き後では異世界に干渉する手段がない。主人公は異世界に閉じ込められ、無事を祈っている故郷の母に会うことが許されない。
だからこそ、ドラクエ1、2へとつながるロトになるんだけども。プレイした小学生の僕は母と会えないというのがとんでもなく悲しく思えたものだ。母の安らぎと主人公の無事を祈って、目を閉じて電源を落としたもんだ。

 

これはウルトラマンに感謝を伝える少年たちと同じであると思う。
フィクションなのに、現実しているかのような錯覚を覚える。

これが本当にうらやましい。

 

 

今まさに、僕も祈りを捧げてしまっている。
ストーリー重視のスマホゲーム。主人公は焼却されてしまった人類史を取り戻すために、過去の英雄を使い魔「サーヴァント」とともに様々な時代、並行世界などを旅する。
この世界を取り戻すということは、この世界が焼却されたことによって成立した異世界を潰すことになる。その異世界を旅する中で仲良くなった少年・少女、仲間は当然世界の消滅と共に「そもそも存在しなかった」ことになってしまう。それでも人類史を取り戻すための旅をする、というのが悩ましいところである。

ひとつの世界を潰し、人類史を取り戻すたびに祈らざるを得ない。君たちの犠牲があるから僕たちは生かされているのだ。ごめんね、ありがとう、と。
こんなおもっ苦しいゲームだからこそ、続けてしまう。きちんと終わりを見届けなくちゃと思う。これが「FGO」である。

 

よく歴史を勉強している開発陣だし、だからこそ本当にあるかのように、いやたぶん本当に存在しているんじゃないか。そう思える。
だからこそ、のめりこみ、現実とフィクションの境界が曖昧になる。
それが本当にうらやましくて仕方ない。

 

 

物語というのは現実と他の世界の境界を曖昧にするとんでもない魔法だと思う。
もちろん効果は協力には持続しないけど、永遠にどこか頭の端っこに居続けることになる。
ウルトラマンに感謝を伝えた少年は、今はもうハゲはじめたじじいだろう。それでも本気で応援していた時の記憶は残っているはずだ。その熱量がどこかで生きるモチベーションになってたりもする。

 

僕は誰かの熱量になりたいとは思わない。自分が作り出した世界が、この世界との境界を曖昧にして、場合によっては侵食しあって、もう一つの世界を成立させたいと思う。危険な言い方をすれば、僕は僕のための理想郷を作り出したいのかもしれない。それは平和が全てではない争いに溢れた世界かもしれないし、厨房で必死になるようなものかもしれない。なんだかわからない。

とにかく、僕は物語をつくりたい。鉄砲より、戦車より、教科書やペンより、恐ろしいパワーを持っているのが物語だと思っている。
ああ!うらやましい!

〈1108.くじ〉

10月9日。

 

一番くじは皆さん知っているだろう。といっても、アニメやゲームに興味がなければやったことはないだろう。
かくいう僕も、これまでに一度、ドラクエの時だけやっただけだ。そして今日で人生二回目になる。今度もゲームの、FGOのくじである。
しかしながらあれはあたらないもんだね。はずれはないから何かしらあたってくれるけど、ほしいのはこないね。
くじとかがちゃがちゃとか、あれは宝くじとおんなじようなもんだ。夢みたいのよ。

 

 

ほしかったのは一等のフィギュアである。なかなかかっこいいんだぜ。
しかしながら2/100とかの確率である。残りの景品が掲示されているところだと、ほしい奴が残ってるかどうかわかるので無駄な挑戦はしなくていいけども。僕が挑戦した時は1/20くらいにはなっていたんだけども。なかなかうまくはいかないもんだ。

こういうときに、数字に強い人であれば期待値とか出して、挑戦すべきか回避すべきか論理的に判断できるんだろう。
しかしながら僕は感情的な方向で生きている身である。確率がどうとかよりも、ほしいものが残っている時点でワンチャンに賭けてしまうのだ。
パチ・スロに手を出してなくて良かったね。

 

 

がちゃがちゃにはまっていた時期もある。高校の時に近くのスーパーでドラゴンボールのがちゃがちゃをひたすら回していた。ベジータのかっこいいやつがほしかったけど、結局あたるのは悟空ばかりである。
なんでほしいものに限ってあたらないんだろうね。そういう理論とかありそうだけども。スマホゲーでもそうだ。ほしいキャラクターの時には出てこないくせに、適当に引いてみたら長年ほしかった奴があたったりする。わけがわからないのに、うまいことやりたくなっちゃうのよ。

 

 

こういうがちゃがちゃ文化が受け入れられているのは日本の特徴的なものとか聞いた。
特にスマホゲーだと、海外の人を視野に入れる場合は確率をかなり易しくしないと続けてもらえないとか、そもそもガチャシステムは回避すべきだとか。
もちろん海外でもくじみたいな確率を楽しむのはあるだろうけど、どちらかといえば競馬とかスポーツに掛け金やったりとかのほうが街中でよく見るかもしれない。
ガチャポンがそもそも治安がいいところじゃないと成立しないっていうのはあるかもしれないが。

 

 

結局、僕の一番くじはほしいものはこないまま売り切れのところばかりになってしまった。残念である。
あたらないもんだね。そういうもんだ。くじっていうのは夢があるけど現実にはやってこないもんだ。そして実際あたっても数日後にはその興奮も冷めてしまう。
これが一億円とかになってくると話が違うのかもしれないけど。そうやって手に入れた巨額の資金は対したものにはならなそうだよ。

それにしても使わなかった運はいつかめぐりめぐってきてくれるのかしら。

〈1107.キャッチーなやつ〉

10月8日。

 

5Sというまとめ方がある。

宗教、政治、セクシャル、差別、スポーツ。

なんとなく察しがつくかもしれない。SNSでの炎上を避けるための、触れるべきでないテーマのことである。どれも対立するものがあったり、一部の人が迫害された過去があったりなどなど、普通の会話でもよっぽどの信頼関係がない限り触れるべきではないだろう。

 

うまいことまとめたもんだと関心した。こういうのって誰が言い出したんだろう。

 

 

小学生のころ、エコ活動がいきなり流行し始めた。南極だか北極だかの氷が溶けるから電気をこまめに消せだの、水がもったいないから水道はきちんとしめろだの、急にぐいぐいと日常生活にやってきた。

それはそうなんだけど、そのころの美術の時間でポスターを描こうという授業があった。テーマはもちろんエコである。しぶしぶ図書館で探してみると、3Rとか4Rという言葉に出会った。

リユース、リデュース、リフューズ、リサイクルだったと思う。資源は大事にしましょうという話である。この場合は英語の接頭辞だからまとめやすいというところではあるけども、当時は関心したものだ。確かにこれなら資源を大事にする行動指針が明確だと。

 

5Sでも4Rでも、たしかに意識すべきポイントは間違ってないと思う。しかし、やはりこの言葉を作り出した人による意図的な絞り込みがなされていることにはやっぱり意識が向かなかった。

 

 

SNSの炎上を避けるというのであれば、「批判」も避けるべきである。ほかにも肖像権を気にしたり、他いろんな権利を気にしなきゃならない。そういう気にすべきポイントはいくらでもある。

資源を大事にするというのであれば、自給自足も一つである。作物を育てるfarm。分別をするのも大事だ。分別するsort。そもそもエコの話であれば資源だけじゃないぞ。

 

などなど。本来考えるべきものがたくさんある中で、意識するものを選び取っている。これは入門書でもよくとられる方法だろう。

無限にあるなかで大事なものを取り上げる、それをさらにイメージしやすいように標語にする。

これはなかなか人間らしい営みだと思う。

 

 

こういうのはおそらく、コピーライターが得意な分野だろう。キャッチーな言葉を選んだり、くっつけたり、創り出したり。

そうやって理解しやすい枠を与えるというのは、目について覚えてもらいやすい。

 

よくできたもんだ。

キャッチーな言葉を作り出すのは難しいけど、気持ちいいもんだよね。なんかやってみたいもんだ。

 

〈1106.都会について〉

10月7日。

 

田舎出身の者として、都会の怖さはなにかを考えた。結局のところ、見えているのになにも知らないという怖さにあるんじゃないかと仮説を立てた。

 

 

例えば住んでいるところから半径100mの範囲で考える。

田舎な地元であれば、ほとんどが畑であり、仮に住宅街だったとしても回覧板まわりとかで知り合いであることが多い。会話がなくてもどんな顔をしているかは知ってたりする。

それが、例えば京都だっとしたら。一人暮らしのお隣さんもわからないし、コンビニとかであれば使うけども個人経営のなにかしらの商店はわからないことが多い。一度も入ったことのない店も多い。それが東京になるとさらにである。ビルとビルの間は隙間なく埋められており、ワンフロアごとに違う会社が入ってたりもする。道を歩けばそんなビルばかりである。

 

だからこそ、漫画のような展開があっても不思議でないように思える。

 

 

あのビルには夜になると人が入っていく。実際はたぶん飲み屋かバーがあるだけだろうけども、仮に夜行性の人型の動物の集いだったら…。相向かいのビルの一個奥のビルは地縛霊が取り憑いていたり…。

文字だけ見れば馬鹿馬鹿しい。けども、実際に東京の夜を歩いてみると、毎日見ているのに全く知らない建物の多さに驚く。こんな時代だし、薬の密売とかあったりとか考えるとちょっと恐ろしい。無知というのは恐ろしい。

そして、同時に好奇心を刺激される。想像を掻き立たてさせる。もしも、万が一、もしかしたら。

 

全てをなんとなく理解している田舎より刺激が多いと思われるのはそういう風景にも隠されているのだと思われる。

 

 

例えば家の玄関や窓からの風景を絵にしてみるとしよう。

上手い下手はあれど、田舎であればほとんど違いなく描ける。家の数、距離感、その家の人数や顔などなど。もちろん、単純に生活している時間の長さもあるだろうが。

それが東京では無理だろう。いくら長く生活していても、人や店が入れ替わり立ち替わり。ビルの階数や隣り合ってるビルの特徴などなど。それこそモザイクのようなぼんやりとした風景になるだろう。

 

 

結局のところ、未知というものへの恐怖が都会にはあると思う。それに慣れてしまえば怖くはなくなる、いわゆる適応だと思う。

適応できていない今だからこそ、気づくことができることもある。通常も外から見たら異常なのである。東京は異常な街だと思いました。

〈1105.if〉

10月6日。

 

僕は週に3日くらいランニングをしている。そんでもって公園で素振りをしている。
素振りをしている間は楽しくて仕方ない。イメトレで試合をすればたちまち30分が経ってしまう。

そして冷えた帰り道。ふと考える。
僕はなぜ素振りをするのか。

 

 

素振りを始めたのは2019年の秋ごろだった。望月選手がウィンブルドンジュニアで優勝するのを見て、やたらテンションがあがったことからだ。
つまり、素振りを始めた動機はあがり切ったテンションのはけ口のためであった。健康目的じゃあない。

しかし、素振りは強くなるためにする基礎づくりである。確かにあがり切ったテンションのはけ口として始めたけども、それなら壁打ちのほうがよっぽどいいことは理解している。つまり、どこかで強くなりたいと思っているからだ。

 

 

そりゃあそうなのかもしれない。
今でも試合の夢を見るし、大会に出場することもある。勝ちに対する欲望が残っている。しかし、今はまもなく社会人になる身である。学生の頃みたいにそれに打ち込むことで人間的な成長を見込めるわけでもなし。おじさんがテニスをするように、健康目的にのんびりやるくらいで十分だと思われる。
テニスをもう一度全力でやりたいけども、全力でやる理由がほしいといったところだろう。その理由が見つかった時のために、強くなっておきたいのかもしれない。

 

 

ところが、僕は知ってしまっている。全国で活躍する人のレベルというのを体験してしまっている。ぼろぼろに負けた記憶がずっと残っていて、生きる世界が違うことを思い知った。だからいまさら強くなるといっても、天井が見えているような気がする。本気で強くなりたいのならば、平日の昼間でもテニスコートに立つべきである。つまり、テニスに人生を捧げることである。
それをしたいとは、思わないわけではないけども他にもっとやりたいこともある。優先順位で優位には立てない程度である。

だとしても、強くなりたいと思うのが止められないから、素振りをするのだろう。この気持ちが10年前、15年前にあれば、もしかすると今頃飛行機の中で次の大会会場に向かっているような人生だったかもしれない。
プロの人をみればわかるけども、必ずしもそれが正解だとは思わない。世界ランク1000位より下の人でも十分に強い人もいる。それでも勝てないからコーチを兼ねてたりする。一方でテニスは諦めて普通に就職して成功する人もいる。それぞれのフィールドがあって、それぞれに正解がある。

 

 

後悔がまったくないといえば嘘になる。もっと全国で勝ちたかったという思いはずっとある。
もし15年前のテニスはじめたてのころに戻ったのならば、やはり全国での勝利、いや世界での勝利を目指すだろう。

それが叶わないから、いまできる素振りをするのだろう。いまから素振りをすれば、県大会くらいで結果を残せるかもしれない。良ければ全国でどうだと考えることもできるかもしれない。そうじゃなくても、時々見る夢で気持ちのいい目覚めが迎えられるようになるかもしれない。

やっぱりダイエットはきちんとしようね。太ってていいことはあんまりないからね。

〈1104.ワクチン後の話〉

10月5日。

 

ワクチンを打ってから一週間が経とうとしている。
ほとんど健康体なんだけど、時々頭痛がしたり、気持ち悪くなったりする。ワクチンがまったく関係ないかもしれないけども、他に体調悪くするような出来事がない。僕はバイトがあるくらいなので問題なく耐えられるけど、受験期とか試合が近かったりしたら腹も立つかもしれない。
それでもその感染症にかかっても軽く済むならいいのかもしれない。

 

 

仮にこのワクチンが例の感染症に対しては効果があるけども、副作用で5年後には死んでしまうとする。確かにやりたいことはたくさんあるのが全て途中になってしまうのは残念で仕方ない。地縛霊になるかもしれない。


しかしながら、現状ワクチンを打たないという選択をした人のうち、なかなかカオスな思考を持った方もいる。となると、現状の人口に対するそういう人に遭遇する確率よりも5年後の確率が圧倒的に高くなる。

 

「ワクチン非接種=カオスな思考を持っている」というわけではないのは重々承知である。しかしながら、政治家とかスポーツ選手とか芸能人とか、そういう人の多くは接種済みであることを考えると、ワクチン接種者が全員死に絶えた後には、娯楽的にもなかなか厳しい時代がやってくるのは目に見える。


残された良心を探すのは、今の世の中より難しいと思われる。いまより人口が減った分、色々平等な世の中になっているかもしれないけども、そんな大変な世の中で生きることと残りの5年を一生懸命生きるのと、どっちが良いのか正直わからない。

 

 

とかいいつつも、現状の頭痛や吐き気はなかなかにしんどいものだ。これなら半年とか一年くらいは様子をみても良かったかもしれない。しかし、その間に感染症にかかってもっと厳しいおもいをするくらいなら良かったのか。
わからないね。

 

知り合いに過激なワクチン反対派がいるのでその人と同じ選択はしたくないという謎の意地でワクチンを打ったところはあるけども。

なにごとも慎重に選択することも大事だけど、その選択を最良のものとするために非科学的な根拠を信じ始めたらあんまりだと思う。自分の判断もきちんと批判的に分析するだけどの余裕は持ち合わせたいですね。