ホウチガブログ

~方向性の違いでブログ始めることになりました。~

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〈1405.ハッシュタグ〉

3月15日。

 

会社の先輩が半年くらい毎日Twitterで活動しているそうな。

ただ単につぶやくんじゃなくて、自分の創作物である絵とかゲームの開発状況とかを更新しているそうな。

 

この人将来独立しようとしているんだろうな。一人じゃなくて二人でやっているならなおさらそうに違いない。

そのための足場を作っているんだろう。

かなりの熱量で更新している様子だ。

 

 

インディゲームを作ろうとする人は頻度を上げて更新したほうがよい、地道に知名度を上げていくと良い、という話が本に書いてあった。

なるほどそれは賢いかもしれない。

 

フォローをしまくっているわけじゃないみたいだ。大きくバズったことはないけど、ハッシュタグで広報しているらしい。

 

なるほど。

そうすると、ハッシュタグで新しい情報を求める人がコアファンになってくれるんだろう。

 

夢がある話だ。

素晴らしい。

 

 

僕も絵を上手くなりたいと思ってそれ用のアカウントを作って10日かそこら上げたことがある。

当然反応はないので、虚空に絵を見せている気分だった。

 

もちろん下手くそなので、知人をフォローしたり話に出したりすることはない。

ただ、仮面をかぶって絵を上手くなるために活動しようとしたけど、仮面をかぶっても虚無だった。

ただ、ハッシュタグをつければいいだけだったのに、それに気づかなかった。

 

 

ハッシュタグの存在意義がわからなかったが、そういう弱い紐帯を生み出すためのものだったようだ。

ハートが一つつくだけでもモチベーションになる。勉強になった。

やってみよう。

 

それとは別だけど、学びはきちんと文字に残した方がよさそうだ。

 

そういうことで、やっぱりホウチガに復帰しようと思ったわけです。

〈1404.プロアマ論争の結論?〉

2月23日。

 

あけましておめでとうございます。
寒い日が続く中で時々温かい春を感じる時期になってしまった。

そんな久しぶりの更新をしたくなるほどの衝撃を受けた。
「プロ」にこだわっていた私が、「非プロ」のほうが優れていると感じてしまうようなことがあったのだ。

 

 

スラムダンクの映画を3回見るくらいには、バスケにカブレるようになっている。
2-3週間前にはBリーグという日本のプロバスケの試合を見てきた。映画で見るのと違って、当然ながら速い。速いしダイナミックだし、戦略的でスリリングである。
ただ、もう一度見に来るかと言われると正直微妙だった。


というのも、ファンになりたいと思うほど魅力を感じるプレーはなかったし、なによりプロの技に気づけるほど私がバスケに詳しくないからだ。


ただ、試合に行くからついてこいと言われればホイホイついていくくらいにはファンにはなった。



そして今日は、よくわからない試合というかイベントを見ることになった。


「プロではなく、DJがいる15時スタートのイベント」これだけが事前情報だ。ぶっちゃけ、イケイケおじさんの自己満足な少人数イベントなんじゃないかと嫌な予感がしていた。

会場も大田区で治安悪いところだし、「プロじゃない」し、1時間かそこらいれれば十分だ。


そうやって気が付けば19時過ぎてイベント終了までフルで観戦してしまった。
「プロじゃない」けどプロの試合以上に興奮した。



プロじゃないとは言ったが、アマチュアというのは明らかに失礼なレベルでうまい。
インカレを戦ってきたような人たちの集団らしい。
しかし、素人目の私であっても数週間前に観たプロより甘いのはわかるような気がした。
ただ、その甘さがあったとしても、それを超える「魅せ方」を熟知した集団である。


つまり、プロとは違う方向で鋭くなっているということだろう。
これってつまり、インディーズってこと?



インディーズとは、Wikiによれば

主にある業種において「メジャー(大手)」に属さない、独立性の高い状態を指す言葉らしい。
まさにその通りであろう。大手に属するというのは、バスケでいえばBリーグであろうし、プロを指すだろう。
バスケだけど、ルールも独自であった。「ストリート系」という分類のバスケだった。


私はプロになりたかった時期があるわけで、すべてに対する認識の中にはプロかそうでないかの二択が内包されていた。
しかも、世界をまたにかけるプロ中のプロが正しいプロだと考えていた。

 

音楽も、インディーズには興味がない。ゲームだって大手パブリッシャーが出す者がすべてだ。
だって、「中途半端に諦めきれない人たちが、中途半端な技術で自己満足のために世に出しているもの」がインディーズだと認識していたからだ。


だとしたら、あの会場の熱気は「嘘」ということになるのだろうか。



断じて否だ。
かつての僕なら「結局アマである」と頑固に言い張ったかもしれない。しかし、プロの試合を見た後、ストリートの試合を見て、興奮はプロかアマかによるものではないと知った今では認めるしかない。


プロ/アマというのは非常に曖昧な境界だろうし、明確に技術の上下はないように思う。
なにより、たとえプレイヤーの自己満足であったとしても、それに「魅せられた自分」は真である。


「プロであることがすべて」と思っていたけれど、その「すべて」って一体何だったんだろう。



もちろん、プロは競技するだけで生活できる/スポンサーがついてくれる、ということで楽しめることが保証されているのは言うまでもない。
レベルが高いのは間違いない。ただ、レベルが高いことが感動するということにイコールではない。


ひとつのことに特化したことで相対的には下手になるとしても、その特化したことで誰かのハートを貫くことができるのを身をもって体感してしまった。



もちろん前提として一定のレベル以上である必要はあろう。
素人がどれだけがんばっても素人である。きちんと型を学んだり、人前に出て恥ずかしくないレベルまで到達してから、プロかそうでない道かを選んだ結果であろう。


純粋に好きで好きで仕方ないというのも必要かもしれない。
なにはともあれ、インディーズの中に輝くものがある。その輝きがプロを超えてくるかもしれない。


「プロ/アマ」の二項対立で捉えているのはもったいないし、そこに「優劣」をもってくるのはくだらないようだ。
「大衆が感動している」かどうかも、「自分の感じ方」には大して意味がない。
「自分が感動したかどうか」これが唯一自分にとって信頼できるものさしだ。


大事なことを見出すことができた日だった。
とにかく体験することだ。「ラベリングはしょうもない」と言う奴こそが、ラベリングを気にしているということだ。
ミイラ取りがミイラになっているということか。


これからは、もっとフラットに自分の感じ方を気にすることにしよう。

〈1403.大晦日だよドラえ〉

12月31日。

 

さて。

いろんなことがあった一年もおわる。

別に生物学的な変化はこの数時間では起きないけれど、社会的な意味としては大きなものが起こる数時間である。

 

わざわざ最近めんどくさがっていた更新をするのも、他ならぬ私がこの周期に意味を見出しているからだ。

 

誰が365日を周期としたのかは知らないし、その参考にしている宇宙の周期もなぜこのタイミングで区切りをつけたのかはわからない。

何も知らないけれどそれでも問題なくめでたいんだからね。

 

 

紅白を観てまったりしている。

ウタが出てきたり、なんかさみしいダチョウ倶楽部が出たり、それはそれで振り返りになって面白かった。

人が歌っている様をテレビで観るのはあまり好きではないが、観てみると意外と面白いものだ。

 

初めてとか、苦手とか、僕は結構思い込みであることが多いので来年は気をつけようかな。

 

片手間でゲームの課金をして希望するキャラクターが出てきた。来年も課金するだろうな。

 

 

抱負を掲げるのも悪くないかもしれないが、それは会社の先輩に向かってにしよう。

思いの外、もし会社の人にネットでの自分を見られると恥ずかしいということも初めて知った。

 

ネットとの向き合い方が、ここにきて難しいと感じた2022年だった。

 

 

知っている人の活躍を見る2022年だった。悪くないけれど、そろそろ自分も活躍したいものだ。

 

環境に慣れることに苦心した一年だったので、来年こそ目立てるように気を引き締めるぞ。

 

ネタもないので、紅白と共にぐだぐだと年を越すことにします。

 

一年お世話になりました。

来年もたまに更新するので、その時はどうぞよろしくお願いします。

〈1402.豊かとか幸せとか〉

12月29日。

 

社会人としてそれらしい額のボーナスをはじめていただいた。
豊かであることのありがたみは余裕が生まれることにあるようだ。


毎月一定の額が手に入ることがわかっているので、欲しいものがあれば貯金して来月買おうができる。
学生の間は我慢していたゲームの購入もためらわずにできる。欲しい時に本も買える。
仕事も時間制限があるので日常に侵食してくることもない。とんでもなくよい環境に身を置いているようだ。

ここまでの半年くらいのことを書いてみると、なんとも恵まれているようだ。
同時に学生最後のバイト先の社員/準社員を思い浮かべてしまう。申し訳ないが、ベテラン社員よりも今の自分のほうが収入があるだろう。

なぜ彼らと僕との間で違いがあるのだろうか。



今の仕事は製品開発である。業務内容も、言ってしまえば直接的に収益を出すような仕事ではなく、数年後数十年後に儲けるための下ごしらえをしているようなものだ。在宅ワークなので外部のひとから暴言を聞くこともないし、不安要素があれば上司に報告すれば大抵解決できるありがたい環境である。
未来の収益のために、財産を蝕んでいることにほかならない。


それに比べて、一年前のバイトはどうだろう。自分の態度次第でリピーターが出てくるかもしれない。直接的に収益に関わってくる重大な任務である。一日中外に立ったり、古くなった弱い暖房で休憩時間を耐えなければならない。常軌を逸したお客の相手をしなくちゃならないので精神的負荷も大きい。


どちらも比較的大企業なのだが、脳みそをどれくらい使うのかがその分かれ道であるようだ。
一年前は言ってしまえばマニュアル仕事で、習得できればレベルの差はほとんど生まれない。新規性を上司からも求められないし、ルールをたんたんとこなせる人間が重宝されたものだ。
現在はむしろ毎日アイディアを求められるし、同じことをやってしまえば不要である。どう改善したのかで評価が決定され次のステップや給料に関わってくる。ルールを守るのは前提なのだ。


話を大きくしてみると、対人能力よりも専門家が価値があるとされるのが現代社会、と言えるだろうか。


しかしそう簡単に結論付けるべきではないだろう。
専門家とはいえ、大学院の先輩方はどうだ。苦労して奨学金を勝ち取ったり、負ければバイトに頼らざるを得なかった。
そしてなにより、社会に価値があるとされることにどれくらい意義があるのかが不明確になりつつあるように思える。


まあ小難しい議論はもうできないので、自分のこどもができたらどう教えるのかを考えてみる。
間違いなく金はあったほうが良い。選択肢があるというのは精神的余裕が生まれる。単純に幸福でもあるように感じている。
ただ、選択肢を増やすのは決して金だけではない。体験することも選択肢が増えることにほかならない。
アフリカに行った経験がある今世では、旅行の選択肢にアフリカがある。移住しなさいと言われたときにも他の人よりカードが多いのだろう。
部活で厳しい生活を送ったからこそ、どんなバイトでも環境を理由に途中でやめることはなかった。メンタルの不調を悟ることもできつつある。


つまり、①一定の金はもらえる/もらう手段を確保できる、②一つのことに熱中させつつ幅広く経験させる、この二点は子供に遺言として届けたいものだ。


そしてもう一点。
最近聞いた話だが、過去の知り合いが警察のお世話になったとか。目の前の金に目がくらんだか、断り切れなかったかだろう。
それを聞いてからは、③憧れの人に知られて恥ずかしくないかどうか、これを判断軸にしてもらえたらいいなと思います。


じゃあ憧れの人ってだれ。
究極的には社会的正義に則っていなくてもいいと思う。生き方のモデルになる存在であればそれでよいだろう。


自分も考え方の軸がなくて困っています。
来年の抱負としては、なりたいと思う人間像を発見することですかね。

 

頑張っていたら結果的にお金をいただけるように生きたいです。


。。。。。。。

 


実に数カ月ぶりの投稿になってしまった。

前回は弟が亡くなった時だったか。明日が四十九日であるようだ。

彼との生活も間違いなく幸せだったなぁ。


今年はこれが最後の投稿になるかどうかはわからないが念のため。良いお年を。今年もお世話になりました。

 


来年はもう少しスタイルを変えますわよ。

〈1401.親愛なる弟へ〉

11月12日。


ようやく大きな仕事が一区切りできた。
久しぶりにアホみたいに酒も飲んで、明日からは片づけをのんびりやって、次の仕事に取り掛かる準備を始めようか、なんて考えていた寝起きのこと。


数カ月ぶりに親からのLINEが来た。
17歳の愛犬が死んだそうだ。



仕事を終えて実家に帰ると、いつものところに寝たまま君はいた。
触ればあかい毛はまだ柔らかい。
やっぱり体は固くなっていて動かない。目を開くこともなかった。体のまわりには保冷剤が置かれている。
でもいまいちよくわからない。
死に際を見ることができなかったからか。すぐにでも起き上がってふんふん文句を言い始めるんじゃないかと思うほどだった。


それが火葬場で蓋を閉められてしまうとさみしさに襲われた。
小一時間経過後に、小さい箱になるとようやくそこで悟った。もう二度と君に会うことはできないようだ。
写真や映像で残っているものの、確かに君がいることを実感できるものは何一つ無くなってしまった。
頭の中のぼんやりとしたおぼろげな君の影があるだけだ。

それが死別の一番悲しいところみたいだ。



17年前、家に泥棒が入った。僕は運良く隣の家に遊びに行っていた雨の日だった。
それから数か月後、番犬として君は迎え入れられた。秋口だったと思うけど、やたら暑くカンカン照りだったと思う。
番犬というにはあまりにも幼く、むしろ守りたくなる玉のような子だった。
当時小3の僕は、空き巣の意味もよくわからないし、ただ君が来てはしゃいでいただけだ。

小さい庭は君が掘った穴だらけだし、自由奔放でべったり懐くような様子もない。
数年後にもう一匹の赤ちゃんが家に来た時にはすっかりおとなしいクールガイになってしまった。


時々君と歩いた畑の中の散歩道。
残されたもう一匹の妹と歩くと、君も僕も幼かった記憶がぼんやりと湧いてくる。
たびたび散歩中に逃げられて、親を呼びに帰って畑の中を探し回ったこともある。君はけろっとした顔で目の前に帰ってきたような気がする。
そういうやつなんだ君は。

そうなんだけども、宅配便のおっさんにも親戚の人にもちゃんと吠え続けてくれた。
立派な番犬だった。
かわいげはなくて、なんかプライドはあるオスだった。
弟というより、うるせえ旧友みたいなところがあった。赤ちゃんだったのに、しれっと大人になった。悟ったみたいに遠くを見ていた幻影が見える。でもまあ、僕の大事な弟だ。


散歩で畑の中を走りまわることもないし、引っ張られることも引っ張ることもない。
ふんふん文句を聞くこともないし、宅配便のおっさんに吠える声もない。
あかい柔らかな毛も、獣臭さもない。


まだもう一匹のかわいい妹がいるのがまだ救いなのかもしれない。
君が記憶の中だけになるのは、どうしようもない寂しさなんだぜ。



群馬の片田舎で、特別旅行にいったともなく、庭とか玄関とかそんなところで大半を過ごした君は幸せだったのか。
残された僕たちは勝手に解釈するしかなくて、実際どんな気持ちだったのかを君に聞くこともできないし、答えてもくれなかっただろう。
というかそもそも、そんなことどうでもいいと君は鼻をフンと鳴らしてそっぽを向くだろう。


生きる目的とか意味とかを求めるのは、実際のところ些末なもののようだ。

あずかり知らないところで誰かがは生まれて誰かは死んでいく。
自分にとって意味のあることをしても、しなくても、他人にとってはまったくもってどうでもいいことだ。
どんなことをしたところでこの世はこのまま続いていくし、どこかこの世が終わるときにはきっとなんにも残らないだろう。
自分のことを特別に思ってくれる人にとっては存在するだけで幸せで、それが唯一意味のあることなんじゃないかと思う。



僕にとっては、家族にとっては、君はなにものにも替えの利かない、唯一の存在だった。
君がいたというその記憶があるだけで、それで僕は幸せである。だからこそ、いなくなった今はさみしさでいっぱいだ。
このさみしさに慣れて疲れた時に、きっと全部幸せな記憶になるんだろう。


どうか安らかにねむってくれよ。
17年間我が家で生活してくれて、家を出た僕の代わりに家を守ってくれて、本当にありがとう。

〈1400.日記のすすめ〉

10月11日。

 

人間の悩みはすべて人間関係に由来するとかいう言葉があるそうな。すべてというのは言い過ぎな気がするが、大半がそれだというのはわからんでもない。

 

悩みというのは問題とは違うわけで、解決策がない、あるいは答えを得ようとはしていない状況らしいです。

 

芦田愛菜さんだったかな。悩むのと考えるのは全く別物だと言っていた気がする。

答えや真理を追い求めるのが考えることで、悩むというのは決断しきれない心理状況のことだとか。

 

例えば、岡島のようにとあるものに縛られていることについて、答えを求めるつまり考えようとすればそれをどう突破するのか方法を考えればいいわけです。岡島はその方法をとり、きちんと向き合って偉いですねということになる。

それが「悩む」というのは、縛られている状況が嫌だなぁでもどうしようもないよなぁ、と一歩踏み出せていない、決意に欠けた状況のことである。

 

前置きが長くなりました。

悩むというのは仕方ないことも多いと思う。特に若かったり、新しいことを始めたらそりゃそうだ。というのも考え方がわからないんだから。

となれば、考え方を示してもらうことが第一歩だということですね。

 

 

ちょうど僕が悩んでいたのはキャリアのことです。

成し遂げたいことがひとつあるけれど、それを実現するためには何をどうしていくことがよいかと、考える枠組みを得られていなかった。

 

そして、1番簡単な解決方法として先輩社員を召喚した。誰でも考える簡単な方法。

そして、その人が考えたことを聞き、それを一つの枠組みとして考えることにしました。

 

これが、例えば読書でもいいし、記事を読み漁ってもいいし、知恵袋で助けてもらってもいいかもしれない。

無知の知というかっこいい話ではないけれど、自分が思考枠組みが足りていないと判断したら、なりふり構わず追い求める。

これが悩む時に取るべき方法だと改めて実感したわけです。

 

 

悩むというのは非常に心の健康に悪い。悩んでいたせいでこの2週間くらい寝つきが悪くて仕方なかった。

考え方がわからないということに気がつけていなかったということだ。

 

それが、ふと先輩にメールを打ってみようと送ってみて、ほんの数十分話をしただけでスッキリ爽快なんだからなんとも単純である。

 

これは良い学びであった。

自分が悩み始めたと感じるためには、現実逃避とかストレスとか、なにかマイナスな気持ちになった時である。

それを解決するためには、自分の中にはその方法がないので、とにかく行動を起こすことだ。

 

悩んでいても仕方ないけれど、悩んでいることに気づかない。

気づくためには、絶えず自分の気持ちと向き合い続けることである。

 

そのためにも、日記とかは良い文化であろう。

もやもやに形を与える良いきっかけである。

 

みんなもやろう。

たまには更新、行進、交信

お久し鰤🐟

 

体の関節からバキバキ音がするみっきーです。

 

先日長期にわたって取り組んでいたことがひと段落し、少し気分が楽になりました。

 

やっと終わったという気持ちと共に、少し寂しい気持ちもありつつ

 

といっても、あの生活を二度としたくはないけど笑

 

これでようやく、自由に時間が使えるようになり、私のBリーグ2022-23シーズンが開幕したわけで

 

今シーズンは贔屓チームのチーム編成予算が昨年の1.7倍になったため今までの比にならないくらい良い選手が来てくれました。

まあ、1.7倍になってようやくB1の平均ぐらいになったんだけどね。

 

もともと外国籍選手のスカウティングがリーグトップクラスのレイクスが平均的な予算でどんなチームを作り上げるのか楽しみですな

 

今のところは、前評判があまり良くなかったテーブスが爆発してくれて大満足かつ、これからキーファーとテーブスのダブルガードがどこまで日本のリーグで通用するのか楽しみ

 

船アリで生で観戦するのが楽しみ

 

きたえーると沖アリとゼビオも行きたいな

 

 

と、まあ時間に余裕ができた瞬間すぐにこんなこと考えるわけで

 

余裕なくても常に考えているけど

 

 

 

 

 

とりあえず腰治さないと