11月4日。
信じるということほど難しいものはないんじゃないかしら。
日本にいても信じることの難しさを感じるのに、こんな異国にいたらなおさらです。
僕は人を信じるという行為が下手だ。めちゃくちゃ警戒しているときはなにひとつ信じないけども、一度二度いいことをしてもらえたら100%信じてしまう。
例えば、セネガルで英語を話せる人がいる。僕はこのひとをはじめは英語を利用して僕から金を巻き上げようとしているんじゃないかと思った。だが、そのあと良い情報をくれたり、ホームステイ先を斡旋してくれたりした。だから100%信頼することにした。
これは一見、素直でわかりやすい良い付き合い方に見えなくもない。
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だけども教科書通りでしかない、むしろ愚かな信頼構築と思うようになった。
英語を話せる人とまた連絡を取った。今度は村に行ってみたいと連絡をした。これについては前に話したこともあるし、すんなりいくだろうと思っていた。彼が話していたことを信じていたから。
ところが。なにやら話が食い違ってくる。そもそも彼は僕に情報を隠して話を進めていたらしい。なるほど。僕は100%信頼していたけども、彼はそういうふうには思っていなかったらしい。
そうして僕は若干の損をする羽目になった。
こういう体験は一回目ではなく、二回目になる。信じ過ぎた故に足元をすくわれた。
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信じるためにはどうしたら良いんだろう。前にだいちとホウチガの中で話し合いになったことがあった。
その時の僕の結論としては、時間・承認・把握、そして相互バカ行為だった。(2019年6月1日245.続信頼論)
絶対的に時間を共有していること。お互いを承認していること。お互いの状況を把握していること。そしてバカでアホなことを相互に開示していること。
僕はいまのところこれは正しいようなきがしている。そして今回のケースでいえば、4つのすべてが満ちていない。
満ちていないのに、なんで僕は信頼してしまったのか。
外国で不安だからでしょうよ!
日本なら遠くても信頼できる人がいるから、駆け込み寺的に盾になってくれたけど、いまはその盾すらない!完全なるハダカンボだ。素っ裸の丸出しちゃんだ。
だからちょっとコミュニケーションが取れて、ちょっと良い話を聞かせてくれたから信頼しちゃうんだ!
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しかし、いつまでもまわりのせいにしているわけにもいかない。不安だから安直に信頼してしまうなら、不安にならなきゃいいんだ。
ひとりぼっちでも不安にならないためには。
よりどころになる最強の柱を持つことだろうヨ!サッカーのとんでもない技術があれば、周りから寄ってくる。踊りがうまければおもしろがって仲間ができる。たとえなにか良からぬことが起きても、俺には〇〇があるからなぁと割り切れる。
と理想的に考えてみた。
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そもそも理想でしかないし、騙されるときは騙されるだろう。でも自分に自信がある、よく聞く自己肯定感とかそういうのがあれば、不安でも渡り歩いていけるんだろう。
僕はそんな自信ないので、何度も騙されて損して、学んでいくしかないんだろう。
海外で生活するってのは難しいな。日本でも難しいのに。難しいと思うから難しいのかしら。