〈921.意見を持つこと〉
4月6日。
意見を持つことについてはこれまで何度も考えてきた。
高校の友人が、考えがないことは考えを放棄していることと同じで愚かなことだ、そんなのありえないと私を怒ったことから。
さて、それについて色々考えたけどやっぱりある程度意見は言えないとあかんと思うようになってきた。
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考えを言わないというのが僕のスタンスだったけど、考えを言わない人間は二つのパターンがあるように思った。そこで意見をどのように持っていくのかについて考えたところから整理したい。
死刑制度に賛成か反対か意見を求められたとしよう。
はじめはこれに対してなにもない。というのも情報がないので善悪わからないのだ。そもそも死刑制度が意味するところがわからない。だから、私は反対だが君はどうだい?と問われると「んーまぁそういうのはなんとも言えないよねぇ複雑だから」と適当に逃げることになる。
これをきっかけにアンテナを立てるようになり、情報を集めるようになる。そういうときは最近であればネット記事であったりまとめサイトだったり個人ブログだったりYouTubeだったりする。こういうのは大抵どちらかの立場からの意見になる。それに賛成であれば同じような意見を持つようになり、内容に批判的であれば反対側の意見を持つようになって賛同できる意見を探す。つまり誰かの意見を手がかりに自分の意見を持つようになる。「犯罪犯しても死なずに飯を食わせてもらえると思うやつが生まれるから死刑は残すべきだ!」
しかし、興味を持っていろんな情報を集めるとなんとも言えなくなってくる。というのも、どちらも正義がありそれぞれのロジックがあるから。情報を集めて根拠が弱いところを見抜けるようになると、少ない情報で過激な意見を用意する人がなんとも残念だと思えてくる。しかしそこには正義があるともわかる。その結果、明確な意見が用意できなくなる。「冤罪の可能性が捨てきれない。人間が人間を裁くんだもの。それぞれの人間の立場になったとき自分も犯罪を犯さないとは言えない。悲しい背景もあり得る。命を奪っておしまいってのは極端かもしれない」
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つまり意見しない人間は、無知か知りすぎたかになると思う。そんな人間を分けるのは問われた時の答え方である。
無知な人間はあなたはどうかと問うてくる。そこの意見をもとに議論を展開する。そもそもの知識不足だからディスカッションができないのだ。
これね、自分なんだよね。わからない話をされたら相手の話を聞いて、そこから意見を探す。
これすごく悲しいのよ。自分が残念に思える。
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つまり、きちんと情報を集めた上で話をしましょうということだ。
専門家として責任を負えるくらいに。
意見がなくても知識はないとダメだよ。判断はグレーにしても、グレーという判断が出せるくらいには勉強しなさい自分よ。