〈1164.ネット生活の快適さのために〉
12月4日。
ネットやSNSでの意見をみると、そのほとんどが建設的じゃあない。その人の感情だけである。全くもって理性的な意見じゃない。本当にどうにかしようとしてるとは思えない。こんな意見を持ってます、私は偉いんだと、自己満足でしかない。
僕のこれもそうだろう。結局社会の問題に対して第三者であることが楽なのだ。
。
Facebookで流れてくる、ニュースに対するコメントなんか露骨にそれである。
虐待問題やいじめの問題、政治の問題や国際問題。どんなニュースでも、大抵コメントがある。
意見があるのはいいことだ、とは言えない時代になったと思う。ワガママと表裏一体な発言も少なくないからだ。
親が悪い!学校が悪い!首相が悪い!国が悪い!
言うは易し、行うは難しである。
親の何が悪いのか、なぜそうなってしまったのか。学校はどうすれば問題の解決ができたのか。首相を選んでしまった国民はどうすれば変えることができるのか。などなど。
意見をする時には、その後ろにより多くの問いがあるはずなのだ。
それを見ずに意見だけ言うのは、本当に解決する気はなく、言ったことで満足しているだけだ。
。
じゃあ僕はこういう問題をここで取り上げた。
無責任はやめるべきだ!という主張である。これで終わればただの無責任な意見である。
具体的な解決策を提示すべきだ。
結論はない!そんなの僕はしないぞ。人の無責任な意見を止めることにキャパを割くのが面倒である。
となると、僕が問題だと認識しなければいいわけだ。問題をないものとするという逃避的解決方法である。
そついう意見を言う人をブロックしまくることだ。それが一番だ。
いやね、そんなの解決じゃなくて、問題の先送り、蓋をしているだけじゃないかというのは最もだ。なにが建設的な意見だよという話である。
めんどくさいんだもの。仕方ないじゃない。そういう意見はやめましょうと言えば、言論封殺だと言われる。自由があるはずだと主張する。
そういうことじゃない。人の良心に訴える話である。
。
つまりこの問題は、どうすれば人は良心を常に持ち続けられるかという問題とつながるだろう。誰しも、愛しいものに対しては優しくなるだろう?それを常に全面に出し続けるにはどうするかということだ。
不可能だ。むしろそれは完全な管理社会であり、ディストピアなんじゃなかろうか。
もしかするとできるかもしれない。ひとつの宗教で日本中を統括できれば。
そしたらこんなぬるま湯な生活は送れないだろうしなぁ。
嫌なコメントを見たらブロックする。それが一番手っ取り早い方法だね。
所詮ネットの話だし。