〈1237.解釈の仕方〉
2月15日。
ちょっと気になっている話。
かなりセンシティブな話であり、気分を害する人もいるかもしれない。
生きる・死ぬの話題に触れたくないタイミングの方は申し訳ないが、読まないようにお願いします。
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仮に人が若くして亡くなってしまったとしよう。
身近ではなく、話もしたことがない、顔も知らない人。
それこそニュースで見るような話。
言い方が非常に悪いけども、その人が亡くなっても自分の人生になにも影響はないような。
それでもあなたの心にはマイナスな空気が流れるだろう。
それを言語化するとどんなものだろうか。
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「かわいそうだ」
これは誰しもあるだろう。
生きていれば色んな経験ができ、たくさんの苦楽を味わえただろうに。
「私は気を付けよう」
関係のない人の死であれば、それほど引きずられることもなく切り替えができる。
せめてその死を無駄にしないためにも糧にさせてもらおう。
「親はなにを思うだろう」
親のほうが歳が近くなってくるとそんなことを思い始める。
もし他者の傷害によって亡くなったのなら、復讐に包まれるだろう。
あるいは途方もない悲しみにくれる。かわいそうに。私にはなにもできないが。
「どんな人だったのだろう」
何を思って最期のときを迎えたのだろうか。
人生への絶望からだったのか、なんともない日常だったのか、覚悟を決めていたのか。
私には想像できないことだ。
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ここまではまだ一般的なんじゃないかと思う。
ここまでで収めておくのが、心の健康のためには良いだろう。
ただ、昔から少し踏み込んだことを考えてしまう癖があった。
「もったいない」
なにがもったいないのかはずっとわからなかったが、最近になってわかってきたことがある。
「命は大事で、尊いもの。なにものにも代えられない大切なもの」
この文言は道徳の授業でも聞かされるし、どんなメディアでもそれが前提となっている。
これについて、どれくらい重要なものなのか、昔から理解できていなかった。
ただ、大事なものであることには疑いがなかったので、それが世界から一つなくなるのは「もったいない」と思っているようだ。
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身近な人間であれば、それこそ「友人」「家族」という自分の構成要素の一部になるので価値がある。
しかし、あかの他人はその点での価値は見いだせない。
ということで、「命の重さ」に納得したいので金額換算するようになった。
裁判では誰かを死亡させてしまえば何億という賠償金支払いが命じられるような良い例を知った。
「6歳で亡くなってしまった子は、きっと保育園や幼稚園にも通っていたし、クリスマスにはプレゼントももらっていただろう。毎日ごはんを食べているだろうし、服や道具も買い与えられていたはずだ。それがなんの前触れもなく亡くなるのは悲しいことだ」
もちろん金がすべてではない。
しかし、同じ尺度で考えるにはちょうどよい。だから賠償命令では金を払わされているのだろう。
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あれほど教わってきた重要な命が、簡単に消えてしまうのはなんとも悲しい。
かつて成人するより前に亡くなった友人の死から、「重要な命」というものが揺らいだ。もちろん自分自身の命の価値についても疑問である。
そしてそんな時期に読んだ漫画「カイジ」では利根川が命より金が重いと言ってのけた。命を大事にしすぎて、リスクを負うべき時にも負わない言い訳になっていると。
どんなものでも、存在するだけで価値があるものはなく、用途や意味を付与することで価値が生まれる。
なるほど、なにか腑に落ちた気がする。
友人の命が重要だったのは、「生きているから」重要なのではなく、「僕の人格の一部」となっていたからだろう。
そんな自己中心的な発想で解釈するのは違和感がぬぐえないけども、同時にすとんとおちるものもある。
「重要」という曖昧な正体のないものが、理解できた。
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最近だと、「鬼滅の刃」で柱が死ぬときに考えた。
その技術に到達するまでの時間や努力、もちろん金もすべて消えてしまった。
しかもそれが愉快犯のようなやつに。
なんだか人の血がないような解釈だけども、ひとつ納得感のある考え方なので仕方ない。
これってどうなんだろう?