ホウチガブログ

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〈1360.役割のこと〉

6月18日。

 

これは中高生の私に向けた文章である。
主人公になろうと必死にならずともよい。それは結果としてついてくるもので、自分は自分の役割を果たすことである。



だいちとゴールデンカムイ展に行ってきた。
僕は二度目なので、大きな感動は特にはなかったが、それでも細かいところまでよく見る余裕があると、ゆっくり色々考えながら見れるので非常に楽しかった。


ゴールデンカムイ展では登場するキャラクター一人一人を丁寧に解説するところがある。モブキャラでさえ、ちょっとは触れられるように、徹底して人間を丁重に扱っている印象を受ける。
おそらくこの展示、あるいは漫画のテーマが「カントオロワヤクサクノアランケプシネプカイサム(天から役目なしに降ろされた物はひとつもない)」という哲学に筋を通しているところにあるのだろう。



ゴールデンカムイの特徴として、主人公杉本、相棒アシリパ、噛ませの白石以外のキャラクターは、明確な敵・仲間がないことにある。
ある時は敵だったやつが味方になり、また敵になる。完全悪だと思われる存在にもそいつなりの意地とか正義があって筋を通している。一人一人が生きている人間みたいで、かみっぺらな存在がいない。


まさに一人一人がそれぞれの役割を全うしている。
そして地に足ついて自分のするべきことを果たし、舞台を降りていく。
無意味な死とか役がいない。


そういうところが愛される作品たる所以なのだろう。



現実はどうだろう。
無意味な死はない、と言い切れるだろうか。全員が意味のある役割を背負った存在だといえるだろうか。
それを判断するのは僕でもなければあなたでもないのだろう。自分自身がどう考えるかによるのだろう。


そもそも役割とはだれにとってだろう。
物語であれば、主人公の進む道・話の進展に寄与することにあるだろう。
では現実はどうだ。主人公はいるわけなく、しいて言えば自分の人生の主人公が自分だというだけである。
人類、という言い方をすると、もしかすると最大権力者の各国首相とか、大統領とか、国連事務総長とかかもしれない。話の進展といえば、技術発達とか社会の成熟とかかもしれない。
そこに当てはめるとすると、人類の60億以上の大半がモブである。
ゴールデンカムイ」の世界で考えても、別に杉本が成しえたことで人類が発展したとはいいきれない。人類史でいうと決して主人公ではなく、がんばったほうのモブである。


話を戻すと、現実における意味のある死、意味のある役割というのは、物語のどこにフォーカスし、どこからどこまでを切り取るのかによるだろう。



僕の物語が仮にあるとしたら、登場人物は少なくて済むぞ。
つまり、人間のほとんどがモブのまま終わりである。
では物語のオチはどこにあるのか。そもそも主人公である私はなにを求めて生きているのだろうか。
読者はわけもわからないまま読み進めなければならない。
それが夢・目標にあてはまるのだろう。そしてそれを果たすことが主人公の役割である。


じゃあ「だいちの物語」「岡島の物語」において僕はなんの役割があるだろう。
おそらくモブではないだろうけれど、物語の真に迫るキャラクターではないだろう。ちょっと疲れた時の飲み友達ぐらいである。
役割というのは、主人公によって大きく変わるということだ。



ちょうどスピンオフ作品のようなものだろう。
例えば谷垣の物語になれば、杉本は大きな影響を及ぼす要因ではあるだろうが、インカラマッほど登場する回数は多くないだろう。主人公杉本も、谷垣の物語になれば一人の脇役に過ぎない。


これは中高生の私に向けた文章である。
主人公になろうと必死にならずともよい。それは結果としてついてくるもので、自分は自分の役割を果たすことである。
その役割とは、自分の夢・目標のために邁進する中で見つけることである。
そしてその役割はなかなか見つけられない。動いていれば勝手にはまっていくものである。


焦らなくていいんだぞ。いつか役割は見えてくるだろう。みんな何かしらの役割を背負っているらしいからね。無駄な死はないはずだ。それもきっと誰かのための役割であるはずだ。