ホウチガブログ

~方向性の違いでブログ始めることになりました。~

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〈1377.「あなたの感想」考〉

7月5日。


Twitterで気になった投稿があった。
「あなたの感想ですよね」と子供に言われて叱った親の投稿。
別にこれに異論を唱えたいわけではなく、どうやって叱ったのだろうかという疑問である。


「あなたの感想ですよね」というのは有名な煽り文句であろう。ロジカルががばがばで、論拠がなく、自分の主観に沿った意見に対する指摘である。ひろゆきさんが使ったとかで今でもよく使われるネットスラングのようなものになっているが、その原典がどこにあるのかわからないですが。


こどもが言うことを聞かない、マナー違反をするときに注意した時にこれを言われたらどうしようか。どうやって叱るのだろうか。



どんな場面でもいい。
子供に注意をした時に、「なぜ?」と論拠を述べられるだろうか。「私が不快だから」というのは理由にしていいのだろうか。そんなこと言ったら子供だって不快だからという理由が通じることになる。
それこそ「あなたの感想」にとどまる。


社会に出たら、すり合わせや落としどころ、妥協点を探すのが大切なことだと言う人もいる。
ただの論点づらしだという人もいる。


そういう簡単な話で終わりにしていいのか、いまいち腑に落ちていない。
というのも、「それは君だけが感じていることだろう?」ということに対して「違うよ」というだけなら誰でもできる。もちろん子供はただの適当なはぐらかしのためだろうけども。
納得感がないからこそ、こういう話になるのだろう。


全てに論拠があることが会話だとは一切いわないが、人に対して叱る・指導するならば、論拠は必要だろう。



感想を言うことのなにが悪いのだろうか。
感想を言うべき場面というのは、なにかの事象に対する把握・認識の仕方の例示をしてほしい時だろう。
映画の評価、事件の認識、第三者の印象など。「あなた」「わたし」の間で確認したいことがあるときに感想をいうのだろう。それを受けて、共感することが前提にあるような気がするし、或いはすり合わせたり、落としどこを見つける。そのために二者間では根拠など特に必要がないだろう。


ただ、これが議論やディスカッション、教育の場面であれば別である。
相手と議論の末に合意を得たり、新しい価値を発見することが目的であろう。そういう場面で論拠のない主観情報だけだと水掛け論になる。


「芋はうまい」「いやうまくない」
これが家庭であれば、「じゃあ今後は芋は私が食べましょう、あなたとの食事では出さないようにしましょう」という妥協点を探す。これが感想を言った末に落としどころを探すことである。


これがディスカッションであれば「○〇という成分がうまみとして感知されます」「一方で○○日以上経過することで△△成分が分泌されるのでまずくなります」というように、主観情報を客観情報に落とし込む作業が必要である。
いわゆる第三者・議事録読者にもまったく共通の理解ができる必要があるのだ。ややアカデミックな話である。
こういう会話が必要とされる場面は、対立構造が明確にあるうえで一つの解答を得るべき時である。



子育てにおいて「あなたの感想ですよね」といわれて困る場面はいくらでもあるだろう。
・食事の好き嫌いに対して食べなさいという指導をした時に言われたら。
・勉強したほうがいいぞという助言に対して言われたら。
・箸をきれいに使わずに食事する様子を注意して言われたら。
・夜の門限について言われたら。


指導・教育というのは非常に責任の重いことである。
子供の好き・嫌いを批判するなら、そりゃあ根拠は必要である。
親である私・あなたがなんとなく気に食わないから指摘するというのは、典型的な拘束型な親になってしまうぞ。


にんじんが嫌いで食べなくても困らない。栄養に偏りが出るのを指摘するなら、人参以外で補えると言割れるぞ。そこじゃなくて、作り手の立場に立ってみて考えてみろということである。1時間かけてつくったものを嫌いという一言で食べてもらえないのは傷つく。それを体験させることであろう。一回二回ではなく、複数回経験すればわかるものだ。
嫌いであることは仕方ないが、食べないことのなにが悪いことなのかを明確にすることが必要である。
なにについて叱られているのか、明確なポイントを示さないしかり方はパワハラに他ならない。


勉強をするべきなのはなぜか、明確に示せないなら勉強しろとは言うべきではないだろう。苦労するから?じゃあどう苦労するのかを臨場感溢れる様子で話すべきであろう。


同じく門限や箸のマナーについてもだ。マナーを守るべきなのはなぜか、それを言えないうちは指導するべきではないだろう。



もちろん、毎日育児をするなかでいちいち立ち止まって考える余裕はないだろうし、いらいらしているときに理由を尋ねられたら権力でどうにかしたくなることも間違いなくある。
しかし、その一言が子供の価値観に永久につきまとうことは忘れてはいけない。パワハラ的にマナーを仕込まれたら、子供はパワハラをする人間になるだろう。


力とか財力で人にいうことを聞かせるのは親が一番やってはいけないことだろう。信頼関係がそれに頼ることになる。それがなくなったときに、腕力が自分を超えた時、経済的自立を果たした時、子供は自分のそばにはいなくなる。


一時的には、親が悲しむ・怒るから辞めておこう、というだけでもいい。そして時間的余裕ができた時、夕飯時や寝る前でもいい、理由を説明してやることだ。


人間を説得するためには、数字・物語・権力・メリット・デメリットを提示することである。アカデミックに話を進めるなら数字に頼ることであるが、日常会話レベルであれば臨場感あふれる物語や、子供が憧れる存在という権力を振りかざすことも一つであろう。


 

「あなたの感想ですよね」と言われたときには、相手が納得いっていない状況にあることを察するべきであろう。
あとは、単純にコミュニケーションとして「煽り」は不快にさせるので避けなくてはならないことを指導するべきであろう。その論拠を示すか、実際に体験させるかは自分次第であろう。

〈1376.チームワークか自意識か〉

7月4日。


昨日の体調不良の影響から仕事を休んだ。
人生ではじめての会社の病欠である。
自分としては一大事であるが、世の中としてはあるあるの一つに過ぎない。
もっとあれこれ言われるかと思っていたけれど、なんにもない。拍子抜けだったというか、むしろなんかさみしいような気分である。



結局自分がかわいいだけである。
病気の自分がかわいいし、上司に怒られる自分がかわいいし、プレゼン資料作りする自分がかわいいだけである。
他人のことは二の次だし、なんなら三の次、四の次である。他人がどうしようが興味がない。
そりゃあそうだ。自分の人生であり、自分の体・精神の安定が第一であろう。


しかし、なんというか、そんなにも興味がないのかとさみしくなる。
大学院の時のほうがまだお互いのことに興味があっただろうし、バイト先のほうが心配してくれたと思う。


そう考えると、ひとつには今の新人研修のチームメンバーもあるのだろう。
チームは全員が同期であるので、自分のことで精一杯である。プロジェクトも軌道に乗っているとは言えない状況だし、余裕のある人間はいない。
みんな自分のタスクでいっぱいいっぱいなのだろう。



そういう経験もあってからか、たまたま別の日に体調不良で午後休暇をとったチームメンバーをやたら心配することになった。自分も経験したからこそ、もう少し気遣いをしてあげたほうがチームとして動きやすいだろうと感じたからである。


僕は僕のことがかわいいし、心配もされればそりゃあうれしいというか、ありがたいものである。
そんなの自己責任やんで済ませるのは、あまりにも淡泊すぎるというか。それでいいのかと感じるのは昭和臭い感覚なのだろうか。


いくらクリエイター集団とはいえ、自分の世界ばかりではつくれるものも作れない気がするでな。
チームで動くんならもう少しウェットでも良いような気がするけども、新人の同期だけだから、で片付く問題でもない気がするでな。



俺が自意識過剰すぎるだけかもしれないが。
これが「個性を重んじる」時代なのかしらと感じた次第です。
人には人の大事なものがあって、安易に踏み込むべきではないというのはわからんでもないし、それで地雷を踏んでも仕方ないんだけども。


まあ単純に俺の人望がないだけかもしれないわね。

〈1375.夜間病院へ〉

7月3日。


平日はずっとパソコンとモニターに向かい、外を歩く時間もほとんどない。
土日もゲームをして、ちょっと勉強をして、となると平日と変わらずほとんどパソコンに向かっている。
その結果、いままでの人生では経験したことのない肩こりに見舞われている。先日の熱中症の影響も完治しているとはいえず、頭痛もあるような気がする。
ということでがたがたである。



肩こりはこれまでなかったし、多少あったときも風呂入って自然治癒のはずだった。
それが、吐き気とか頭痛になってくると困ってしょうがない。ということで、部活でがんばってた時ぶりにサロンパスの活躍である。
実際に貼ってみて、効果があるかどうかはぶっちゃけわからない。
ただ、悪化はしてないし、なんとなく気持ち悪さもなくなっているような気がするので貼らないよりは良かったのだろう。


態勢が悪いのもあるだろうし、最近モニターの明暗をやたら明るくしてしまった目の疲れもあるのだろう。
モニターを一番暗くして作業をしてみると若干楽になっている気がする。
そういう細かい負担の蓄積がばくはつしてしまったのかもしれない。



そして一番思うのは、いまはもう社会人であるということだ。
大学生であれば、一日授業を休んでも教授に連絡したり友達に連絡したりしてどうにかなったが、会社はそういうわけにはいかない。
もちろん、新人なのでそんなに重いタスクもなければ、一日休んだくらいでダメになるような采配を上長もしてこない。だから有休を使っても問題はないのだろう。
ただ、学生の頃みたいに無責任というわけでもない。そのため休みも休みで満喫できるわけではなさそうだ。
特に体調不良というのは、自分の体調管理能力不足にほかならない。なんともみじめである。


数年前と違って、自分の生活が自分だけのものとは言えない。
一日休めばその分給料もない。
結構大事な問題である。



とまあ、がたがた文句たれていると急激に体温があがり、38度を迎えようとしている。
慌てて夜間病院に向かって、血液やらCTやらの検査の結果、ウイルス性の腸炎だった。つまり、ヘンナモンを食った末路というわけだ。
夏場になって、細菌もよく繁殖し始めたというわけだろうか。生ものを食べた記憶がないのだが。


皆さんも気を付けてくださいね。
熱中症と胃腸炎。きちんと火を通して、腐ったものは食べないように。

〈1374.壁打ち役〉

7月2日。

 

ふと、なんとなく考えていたことを同期に相談した。
自分としてはなんとなく考えていただけだが、言葉にしてみると結構なインパクトのある言葉になる。
例えば転職とか、独立とか、海外移住とか。「なんとなくあこがれがあるんだよねえ」と言っても、受け手からしたら「○○は転職/独立/移住したいのか」という部分を切り取ることになる。
それが悪く進行したらすれ違いになるのかもしれないが、友人に相談するというのは大きな一歩であるように思う。
その未来を希望したらどうなるのか、というシミュレーションを相手はしてくれるので、考えてもみなかった世界が待っているのであるから。



今回の僕の相談事は小さな一つの企画についてだった。
どうやった面白くなるだろうかと相談し、いつかこの企画を個人製作でも成仏してあげたいとちらと言ってみた。
すると、いいじゃないか、どこで売るんだ、どうやって売るんだ、ターゲットはどうするんだと壁を用意してくれる。
それになんとなく回答をしていくと、まるで自分が一つのアイデアを形作るプロデューサーにでもなったような気分である。
イデア時点だと、なにがどれくらい準備する必要があって、そうするとどれくらい先なのか、まったく考えないので机上の空論に過ぎない。


それが実現するためには実際のところどれくらい準備が必要なのか、腰を据えて考えることができる。
こういう壁打ち相手になるのは多分上司ではなく、同期や後輩がいいのだろう。
そしてなにより、根本的に自分や企画に興味を持って応援をしてくれる人であることだ。
できれば同職種ではなく、むしろ遠い職業で詳しい人がいいのだろう。



実際にそういう話をしてみると、自分のアイデアの面白いところ・つまんないところが言語化される。
そしてそういうアイデアを出す、自分自身の強み・弱みがわかってくる。
今回の相談相手は特にその強み弱みを歯にもの着せずにストレートに言ってくれる奴である。
そして経験が豊かなのでいろんなアイデアや参考を出してくれる。


今回はたまたま相談相手が最適な奴だったけど、次なにかを相談するときにはきちんと最適な奴を探す必要がある。
もしのシミュレーションをしてくれる最適な壁打ち相手を探すのは非常に難しい。
僕自身、素直な壁打ちではなく、なにかアドバイスをしようとしてしまうだろう。
そしたら、アイデアはその人のアイデアではなく、自分のものになってしまう。余計なお世話である。


壁打ち役を頼まれたら、なにも考えず、最適な問いを投げてあげることだろう。
例えばソクラテスみたいな、相手の意見を引き出す問いを続けてあげることだろう。
ソクラテスの場合は、彼の中で回答があって、その誘導に近しいので最適な壁打ち役なのかはあやしいが。

〈1373.仲が良くなるとは〉

7月1日。


会社に入って、短期間で仲良くなった人、時間をかけてもそれほど仲良くならない人、色々いる。
その差がなぜ生まれるのかよくわかんない。
時間をかければだれでも仲良くなれるだろうと思ったけれど、そういうわけでもなさそうだ。
じゃあ腹を割って話したときに仲良くなれるのかと言われれば、必ずしもそうだとは言えない。腹を割ってもらった結果、壁ができてしまうこともある。
不思議である。



仲良くなった人って、どういう経緯があるだろう。
例えば今でも連絡をとる友人との馴れ初めを考えてみるといいかもしれない。
僕の場合は、大学の授業でグループワークが一緒になり、その後すぐに行ったサークルの新歓でそいつもいた。単純接触数もひとつ大事かもしれない。


それでいったら、仕事の人はすべて仲良くなるはずだ。毎日顔を合わせているんだもの。
しかし実際はそんなことない。なにがトリガーになって仲良くなるのだろうか。


さっきの友人の例で考えると、最初のグループワークが一緒だったこともあって、他の授業の履修とか入りたいサークルとかを聞いたりしたと思う。
すると、○○に興味があるからこの授業とるとか、■■の力が欲しいからサークルはどうするとか、そういう話になった。


ただ、こんな話題も大学生なら誰とでもするだろう。
つまり、この話題の先で、なにかがあるから仲良くなる/ならないの差が生じてくる。
そして大事なのは、同じ選択をしたことではない。同じサークルのメンバーでも連絡をとらなくなった奴は大勢いるわけで、いまでも連絡をとるそいつは同じサークルには入らなかった。
なにが仲良くなるポイントなのか。



そこで思ったのは、同じ授業をとろうといって過ごす時間が長い奴とはそれほど仲良くならなかったという事実である。
むしろ、授業の相談をして、「俺は○○が好きだからこの授業をとる」「おれはそれには興味ねえなあ」といった奴のほうが仲が良い。
つまり、本音を言い合える関係性というのは一つ大事なポイントであろう。


ただ、最初に言った通り、腹を割ったら仲良くなれるわけではない。
「聞いた本音を応援できるかどうか」、これに尽きるんじゃないか。


応援できない本音を聞いたところで、まあ君は頑張ればええやん、で心の距離はむしろできるわけだ。
しかし、本音を聞いて、「私の興味はそこになかったけど、それはなんとも面白い。ぜひともその夢を追う姿をみせてくれ」と思ったら、その人の夢がある種自分の夢にもなるのだ。


これを考えると、過ごす時間が長かった奴とは仲良くならなかったというのは、僕個人の好みがそうだっただけである。
やけに距離が近くてべたべたするのは苦手である。
なので、人によっては距離感が近いほうが好みの場合もあるだろう。
なので、大事なポイントは「相手の本音が自分の本音のどこかにひっかかる」これにあるのだろう。



そう考えると、相手の本音が自分の本音にどこか近しいところがある、というのが仲良くなる条件であるように思える。
相手の中に、私を見つけることとも言える。
ただ、まったく同じだと、同類嫌悪にもなるだろう。


つまり、本音は近いけど、性格は違う、という微妙な関係性が成立することにあるかもしれない。
あるいはその逆もあるのかもしれない。性格は近いけど、本音がまったく違う。これについては今回はおいておこう。


万人と仲良くなれるわけない。
仲良くなれる人間というのは、相手のどこかに自分を見出していて、自分のifの世界線を見ているような感覚が必要なんじゃないか。
だからこそ応援したくなって、応援されたいと思うような。それが一種親友なのだろう。


自分のifが親友だと考えると、生育条件の類似があったり、環境要因の類似も必要になるかもしれないが、そこも条件が複雑になるのでわからない。
とりあえず今回は、ここまでにしておこう。

〈1372.熱中症〉

6月30日。


リモートワークということで家から出ずとも仕事ができる。なんともありがたいものである。
しかし、今年はなんとも暑い6月になってしまった。そのため室温管理や体温調整が非常に難しい。
しかも我が家にはまだエアコンがついていないのだ。サーキュレーターが足元で頑張ってくれているが、限界があるかもしれない。



今週になって、気温が異常になった。
われらが群馬では40度越えが起こり、埼玉とか岐阜のほうでもそうなったとか。
東京でも35度とかで、もう真夏である。
そしてリモートワークでパソコンとモニターを開いていると熱を発し始める。


もう部屋はおかしい気温である。
冷房がないわが部屋はやばい。しかも電車が近くを通るので窓をあけすぎるわけにもいかない。死ぬ。

ということで、おそらく今日、熱中症になった。



暑いはずなのに暑いのかわからない、むしろ悪寒がしたりもする。
吐き気もするし頭もイタイ。
もう最悪である。


しかし、こうやって文字にしてみると激しいけれど、当人からしてみたら徐々にやってくるのでいまいちピンとこない。
やばそうだけど、これまではやってこれてるから大丈夫だろう。
よく言う、正常化バイアスみたいなもんだ。



そんなやばい感じなので、さすが置き型冷房機を置いた。
設置型エアコンが安くても5万とかだけど、置き型は1万くらいである。
しかし、性能もその通りである。
きちんと冷たい空気が出てくるとは言えない。
機体が暑くなって、熱風が出てくるようになる。暖房である。


ということで、置き型冷房機にケーキを買った時に付けてくれる保冷剤をくっつけた。
すると冷たい空気が出てくるようになる。
古臭いかもしれないが、これによって冷たい空気が得られるようになった。保冷剤もずっと冷たいわけではないので定期的に取り換える。


かつて灼熱の中で冷気を求めるような体験である。
冷房というのは偉大な発明であるよ。



しかし、これは僕が20代なのでネタとして成立するが、これが80代であれば死の危機であろう。
しかも歳をとると感覚が鈍るので、水を飲んだり危機感を感じるのが遅くなるので、冗談ではない。


ちゃんと冷房をすることが命を守ることになる。
節電はもちろん協力しなければならないが、それで死んでしまっては元の子もない。
冷房がない環境だからこそ、改めて灼熱の中での冷たさのありがたみを感じられた。
どうか親戚に年配がいれば忘れずにいてほしい。

〈1371.肩幅ブロリー〉

6月29日。


すごく適当な話。
ドラゴンボールZ 燃えつきろ!!熱戦・烈戦・超激戦」という映画がある。
かの有名なブロリーが活躍する話である。
その中で、伝説の超サイヤ人ブロリーが覚醒するシーンがある。足元から顔にあがっているカメラワークで、目が白くなって、金髪になって、筋骨隆々になった体が映されている。
そのシーンがたまらなく好きである。



強さが表れるのは肩幅なんじゃないかと思う。
ブロリーが強そうに見えるのは、異常な肩幅であると感じる。
悟飯を攻撃するときには、空を飛ぶブロリーが追尾するシーンが流れるが、正面からだと顔と肩だけ見えたりもする。
そこでのブロリーのやばさは完全に肩幅の広さであろう。


完全な逆三角体系であろう。
とんでもない肩幅と絞られたウェスト。トランクスをラリアットするシーンなんかは腕がぶっとくてしょうがない。
強い(強そうに見える)男はことごとく肩幅がえげつないように思える。



しかし、冷静に考えると肩幅がデカけりゃ強い、というのは僕の思い込みだろう。
ボクサーは肩幅が広すぎるようには見えない。特に軽量級であればバランスがとれた体形である。
むしろラガーマンみたいな重量級人間が肩幅が広い。


実際どっちが強いのかはぶっちゃけわからない。
体が軽くて手数が多いのと、のろいけど一発が重いの。どっちも強いので、それぞれの強さがあるだけである。



強さというのはわからない。
実際ブロリー映画では孫悟空ブロリーをやっつけるわけで、見た目がいかついボディビルダーはケンカが強いとは限らない。
漫画とかだと戦場をかけぬけた無駄のそぎ落とされた体はスリムだったりすることもあるし。


結局なんの話なのかわからないが、人間が強さを感じるのは肩幅だと思っていたが、それが正しいのかわからない。
そして実際強いのは見た目が強いだけではないかもしれない。


ただ、男のロマンという意味では肩幅が好きなんだというそれだけの話。