ホウチガブログ

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〈995.カタルシス〉

6月18日。

 

冒険ものの小説を読み終わった。

昔みたいにのめりこみすぎて夕飯に手がつかないようなことはないけども、それでもこのカタルシスはたまらない。穢れの浄化がカタルシスの語源らしいけども、なんというかのめりにのめりこんだ末にすべてが終わった脱力感というか達成感というか虚無感というか。

そう虚無感である。すべてが終わった。よく言えばハッピーエンドであり、悪く言えば物語の世界の終わりである。
永遠に続いてほしいような、それでいてハッピーになって良かったような。
僕は永遠にこれがほしい。

 

 

いろんな作品でカタルシスに浸ってきたが、具体的になんの作品だったのかは思い出せない。2-3日なんにも手がつかなかったこともあった。映画館だとスタッフロールが流れ終わって明るくなったあとも立ち上がれなくなったこともある。
そういう作品はたいていの場合、すべてが丸く収まる終わりではない。だからこそカタルシスがやってくるのかもしれない。犠牲だったり、失ったものによって支えられた幸福だからこそ虚無感が押し寄せてくる。

 

例えばドラクエ3。長い旅路の末にようやくボスを倒したと思ったら故郷に二度と帰れなくなってしまう。その新しい土地で残した子孫がドラクエ1、2の主人公になるわけだから結果的にはハッピーかもしれないが、育ての親の顔を二度と拝めない青年はどんな気持ちだろうか。祖国の平和のために戦ったはずなのに、その祖国に帰ることはできない。

 

 

盛者必衰とはまたちがうかもしれない。完全な幸せは存在しないということかもしれない。それを愛した物語の中で感じると得られるのがカタルシスらしい。


虚無感というネガティブなところが大きいはずなのになぜそれを求めるのか。ネットで調べると、「すべてが空しく感じること、何事にも意味や価値が感じられないような感覚」と定義される。
むなしい。どうせ死んでしまうし望みが全てかなうわけでもない、そんなものに意味なんてないかもしれない。究極的に人が生きる理由ってないんだもの、後付けで個人が各々に見出しているだけで。
それをストーリーの中で殴られるようにして思い知らされてカタルシスに浸っているように思う。それが気持ちいいのだ。

 

 

結果的にむなしいものしか残らない・何も残らないのに、ヒーローやヒロインは血のにじむような努力をしてきた。すべて無駄だったと吐き捨てることもできるし、無駄だからそんな小説燃やしてしまってもいいかもしれない。でもその経過を僕は知っているし、その経過があるのとないのとでは残された虚無の意味が違う。同じ「虚無」でも「意味のある虚無」と「意味のない虚無」がある。
もしかしたら「意味のある虚無」というのは虚無ではないのかもしれない。物語の中では終わったことも、世界を超えて今の僕にはなにか残されたものがある。

 

つまり、物語世界では「意味のなかったような出来事」であることに虚無感を感じるけども、僕には「そこに意味を見出した」という充実感がある。その板挟みな状況こそがストーリー後に得られる「カタルシス」の正体なのかもしれない。

 

 

ちょっともう何言ってるかわからない。
無の中で確かに煮えたぎるものがあるのは確かである。悲しみの中で見いだされた希望にはとんでもないパワーがあるということで。そういうこと。