ホウチガブログ

~方向性の違いでブログ始めることになりました。~

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〈1247.戦争〉

2月25日。

 

話題にするのは憚られるけれど、この話題は触れずにはいられない。
24日、戦争が始まってしまった。
まさか生きているうちに「戦争がはじまる」なんて言葉を使うことになるなんて思ってもなかった。
自分が平和ボケしていたということが突き付けられた。
そして、情けなさにも向き合う必要がある。

 

 

事態は何が正しくて、何が誤情報なのか、わからないくらいに錯綜している。
ロシアがウクライナ内にいる親ロシア派を助けるため、という口実のもと攻撃を始めた。
攻撃の激しさをようやく認識できたのは、一日経ってTwitterでわかりやすくまとめてくれた短い動画が流れてきてからだ。
その衝撃たるや、東日本大震災の映像を彷彿させるものだった。

信じられない。ゲームや映画ではなく、本物の世界で、死者が出ている。
ネットで調べれば、色んな人が動画をあげている。
作られた情報もあるし、リアルタイムで戦車が動いている動画も投稿される。

そりゃあ、ウクライナの支援にまわるのが今ある情報では正しいのだろう。
しかし、あくまで冷静でありたい。感情に流れれば流れるほど、事態が悪化するのは70年ほど前に我々は学んだはずだからだ。

 

 

しかし、大国ロシアが動いたというのは、隣国日本としては他人事ではない。
東側陣営の国が近くにあり、なかなか挑発的なコメントを出している高官もいるらしい。
焚きつけられて、冷戦と同じ態勢で世界を巻き込んだ戦いになる可能性も否定しきれない。
数日後には、日本も自衛隊を送っているかもしれないし、僕が銃を握るようなことになってしまうかもしれない。

遠くで起きていた紛争ではなく、そして経済的にも発展した国での戦争である。
なにがどうなってもおかしくない。もし本当に起きてしまったら、僕はまったく役に立たない駒でしかない。
ただ「祈る」ことしかできない。

 

 

しかし、祈るというのはなんともズルい言葉だ。
目の前で銃を構えられた人たちのことなどつゆ知らず、「平和を祈っている」というポーズを表現できる。
自分は安全なところにいて、消費する情報に対するポーズなように思える。
本当に苦しんでいる人のことを本気で考えていたら、「祈る」なんていう第三者的な態度は取れないはずだ。祈るより先に行動を起こすのが本当の祈りであるはず。
やはり、自分が祈っているのも、まわりが祈っているから祈ろうというポーズである。なにか行動を起こせるのか、というとできない。

 

 

この「祈り」はどこに向けた祈りなのだろう。
ウクライナの人々、ロシアの一般市民、それぞれの安否を祈っている。
少しでもはやい収束への祈りでもある。

しかし、それだけじゃない残忍な自分が祈っている。
このまま早く収束してほしいという祈り。つまり、自国、自分の安全が第一だという祈り。
なんとも自己保身的で醜い祈りだろう。

ユーラシア大陸への祈りではなく、日本列島の安全の祈り。
情けない。しかし、無力であるというのはこういうことだ。
せめて金があれば資金援助ができるし、影響力があれば大衆の意見を率いることができる。

こんなに歯がゆく、情けなく、醜いと思うことはない。

 

 

「当時は、まさか景気が悪くなるなんて思わなかった」とバブル経済を振り返る番組があった。
大きな社会の流れが、突然ぷつりと切れるなんてないと思う。正常化バイアスというやつだろうか。

「当時は、まさか平和が終わるなんて思わなかった」なんていうことを言いたくはない。
この第二次世界大戦以降の、それまでに比べると比較的平和だった期間は「戦間期」になってしまうのだろうか。
指をくわえて、流れに身を任せるしかないのだろうか。

 

ウクライナの無事を、ロシアの反戦の人々の、これからの平和を、ただ祈るしかできない。
人が死ぬのは嫌なんだ。