ホウチガブログ

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〈1303.ハイコンテクストと存在〉

4月22日。

 

「ハイコンテクスト文化」という言葉がある。
文化人類学者ホール氏による文化区分の一つであるらしい。コミュニケーションにおいて、共有されている情報・感覚・価値観が多く、以心伝心で意思伝達が行われる傾向が強い文化のことであるとのこと(実用日本語表現辞典より)。


例えば、常連さんがバーのマスターに「いつもの」と頼むのがあるかもしれない。もっと日常でいうと、「紅茶」ということで「午後の紅茶」を指し示すことになっている友人関係は一つのハイコンテクスト文化があることになる。
こそあど言葉で会話が進行すれば、それはハイコンテクストな会話である。
それができるというのは気持ちが良いことである。なんでだ。



例えば、初対面の時に共通の話題があるとしよう。同じ映画「帰ってきたヒトラー」が好きだとする。
そしたら、その友人に対して、「スタルバックシに行こう」といったとする。その「スタルバックシ」という記号は、スターバックスのことを指し示すが、同時に同映画におけるヒトラーの発音を模していることも指し示している。つまり、ファン同士の中でのみ理解できるネタである。
この仲間内のネタを理解できることが気持ちが良いことである。


これは単純に踏み絵的な効果があるだろう。理解できれば仲間、理解できなければアウトサイダー
オタクの友達がいれば、多分それを楽しんでいるだろう。理解しあえる希少な人間に出会えた喜びがある。
つまり、自分に似た存在を確認したことで、自分の存在を肯定したことによる喜びが要素の一つとして内包されているような気がする。



共通の文化圏の人間がいるというのはとんでもない安心感がある。
セネガルにいるときに、コミュニケーションを取れる人間がいないのは肩身が狭いし、自分の存在を認めてくれる外部の存在が一つもないように思えるからだ。
学校や職場でのいじめの被害者が感じるのも似たようなものだろう。仲間がいないというのは、社会的動物「人間」にとって生命維持を不安定にさせる危機的状況である。


その、共通文化圏を認識するためにも、ハイコンテクストなコミュニケーションはなされるのであろう。
悪い言い方をすれば、敵味方の分類をしていることにもなる。


これができてうれしい、気持ちが良いというのは、自分の存在を肯定・仲間の発見という生存本能的な安堵があるだろう。

 

 

最近これをめちゃくちゃ感じる。
会社におけるハイコンテクストなコミュニケーションについていけないときは疎外感を感じ、それについていけた時には非常にうれしく思うと同時に安堵する。
あまりよくないと思うな。そんなレベルで存在を確認しているのは、あまりにも安定感がない。自分の存在を外部にゆだねているように思われる。
文化からは逃れることができないし、あって当然な空気みたいなものであるから、そこに抗うのは意味のない行動に他ならない。しかしながら、そこを生きる軸にするのは貧弱である。


自分が存在する価値というのは、周囲に頼らずに見つけておきたい。それを理解してくれるハイコンテクスト文化がたぶんどこかにあるはずだろうから。