ホウチガブログ

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〈1309.言語表現のこと〉

4月28日。

 

使い古されて、もうなんもうま味が出てこないような表現に出会うと嫌悪感がある。
セックスのことを「生まれたままの姿で愛し合う」という歌詞、選択できるシステムのことを「君だけの○○をしよう」という広報。
もう氾濫している表現のなかでそれはもう沈殿物だべな。
言葉と向き合う時間が必要だぞ。



たぶんこういう表現が出てくるときって、つくっている本人の脳みそはもう死んでいると思う。
歌詞作家は永遠にダメ出しされて脳が考えることを拒否し、企画づくりは「面白さ」を考えすぎてもう言葉の表現とか受け取り手がどう思うかを考えられなくなっている。
あるいは、先行研究が十分ではないのだろう。同じような発想している奴がいっぱいいるんだぞ。その中でその表現を採用してたら埋もれるでな。


じゃあせっかくだ。セックスの面白い表現、選択システムの魅力をもう少し分解してみよう。



「生まれたままの姿で愛し合う」というのは、簡単に言えば「裸で性交する」ということだ。それをオブラートに、18禁を避けたような感じだろう。

ただ、それを直訳したわけではない。「生まれたままの姿で」というところが含意するところに「ピュア」というのがあるだろう。
感情をむき出しにすると考えて良いと思う。
歌の中でそれが出てくるときっちゅうのは、めちゃめちゃ好きで仕方ない時か、性欲の権化になった時だろう。
ただ、この「めちゃめちゃ好き」と「セックスしたい」の間にはいささか隔たりがあると思う。
ピュアに好意がある時は、相手のためになにかしたいという感情が大きい。セックスしたいというのは快楽に溺れたいというところが大きいだろう。
「生まれたままの姿で」というのは、感情をむき出しにして、という意味合いが強いと推測する。


「愛し合う」という表現にも注意が必要だ。
お互いが愛をぶつけ合う必要がある。一方的ではない。つまり互いに愛がある状態である。ただ、この愛というのが先ほど同様「ピュア」であるかどうかは微妙なところだ。この「愛し合う=セックス」というのは社会的にタブーされる文脈も含んでいる。つまり、密会的な意味合いも含んでいる。


「生まれたままの姿で愛し合う」というのは、「大人な恋愛をする」ということだとしよう。
社会常識からの逸脱欲求を含意している。自分と相手だけの濃密な世界がほしいということだ。
「感情・欲望を丸出しにして、一般常識から外れた関係になりましょう(=セックスしましょう)」ということにしておこう。
じゃあこれをポエティックにしたらどうなるだろう。
「感情・欲望を丸出し」というのは野生児である。理性がない。動物的である。
「一般常識から外れる」というのも同義になってしまう。社会的なスティグマ(偏見とか差別とか)を押されることでもあろう。キリスト教文化で十字架上のキリストの体の傷と同じ聖痕を意味するらしいです。それを良しとする関係である。ただ、あくまで二人だけの世界の中で。


「檻から抜け出して、二人だけのスティグマを刻もう」
なんかバンクシーみたいな感じになってしまった。スティグマを刻むというのは一種キスマークをつけるみたいなダブルミーニングにもなりそう。ええやん、気に入った。
でも痛いですね。この表現は。社会学習いたての大学生が書きそうな歌詞である。ダメですね。



選択システムの魅力をもっと伝えられる表現を考えよう。
「君だけの○○をしよう」という言葉が意味するところから考えましょう。
例えばプロ野球選手のカードゲームがあるとする。それで自分が好きな選手だけを集めてセ・リーグだかパ・リーグだかわからんけれど、そういう試合をこなして優勝しましょう的な話だとする。


つまり、好きな選手と好きではない選手の選択できることが魅力である。
そして自分が好きな選手を集めて打線を組むのが楽しいポイントである。居酒屋でおっさんが話していることが実現できるというわけだ。そりゃあわくわくするわな。


ただ「○○しよう」というこの表現がどうも気に食わない。
お前に言われなくてもするわい!と思うし、だれともわからんお前のおすすめなんか頼りにするかいな!と思ってしまう。
これはもう簡単な話になりました。
知っている人間からのおすすめであれば、納得がいく。友人の山田に「お前もこれで打線組もうや」と言われたら、まあ山田がいうんやったら一回くらいはええか、となるだろう。
そして、一度はそういう打順話をしたことあるやつが惹かれることが目的である。


「山田も申しております。「お前がこの間言ってた打線、これで組んでみてや」いかがでしょうか。」
これで決まりでしょう。
知らん人からのおすすめほど怪しいものはない。それで山田というだれでも1人は知り合いにいそうな名前を使うことで、勝手に山田という友人を想定せざるを得ない。
そいつが「この前言ってた打線を組め」と言ってくるということは、そのゲームであれば可能だということを示すことになる。そして知らん人からのおすすめほど怪しいものはないので、下からうかがうのだ。「申しております。いかがでしょうか」
これはもうバチィと決まったでな。



こういう言葉を考えるのは楽しいけれど、時間と労力がいる。
要素を分解する、特徴を整理する、アイデアを生み出す。
どれもヘビーな仕事である。
なにか企画を考えるときは、こういう言葉の表現のための時間をきっちり用意する必要ありですな。
買い手がまっさきに知るポイントはこれなんだもの。
そこ手を抜いたら全てがパーだでな。