ホウチガブログ

~方向性の違いでブログ始めることになりました。~

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〈1396.全年齢対象への憧憬〉

8月28日。


CERO」という言葉がある。
ゲームの内容についての倫理規定を決めている団体のことである。そして同じ名称で倫理レベルも示す。
CERO:A」であれば全年齢対象作品、というようなイメージである。映画の倫理規定がわかりやすいだろう。


ゲーム会社に勤め始めて、ゲーマーが好きなゲームだったり、大人向けゲームであったり、選り好みせずに遊ぶようにしている。
そして自分もクリエイターとしての仕事を始めて、CEROの規定で販売方法・表現方法に大きく変化が出ることをはじめて知った。


やはり、全年齢対象というのは素晴らしいことだと感じる次第である。



クリエイターの視点から考えてみる。
倫理規定というのはわかりにくいところもある。
血の表現があればCERO:Aではなくなり、BやCという年齢制限や大人の指導が必要になる。しかし、スマブラCERO:Aであるように、殴る・蹴るという行動の表現をポップにできていればAになる。
後述するが、売り手や広報からしたらCERO:Aであるに越したことない。だが、「本来表現したいこと」に制限を加える必要がある。


これはかなり厳しいことである。
ゲームとしての側面を考えると、結局プレイヤーが気持ちよくなってほしいので暴力表現は最も簡単な方法である。
その表現がリアルであればあるほど「殴る・蹴る」の爽快感は増すだろう。
そしてクリエイターとして表現したい「最もかっこいい」「最も美しい」というのは、往々にして非日常である。
プレイヤーに爽快感を与えつつ、CERO:Aを守り続けるというのは、かなり矛盾する側面もあるように思うのだ。


人間が気持ちよくなるのは、全年齢対象ではなくなっていく、という話もできそうではある。



売り手や広報から考える。
ゲーム産業には「パブリッシャー」というゲーム販売専門の会社や部署がある。
その部門からしてみたら、倫理規定によって厳しい判定が下されるということは、つまり「市場を小さくする」ということに他ならない。
例えば、麻薬に関する話題が含まれる作品だと、当然厳しい「CERO:D」や「CERO:Z」という枠組みになる。
過激になればなるほど、狂信的に好むファンもいる反面、社会一般からは疎まれたり蔑まれたりもする。
「麻薬」という言葉が嫌いな人もいるだろうし、そういう人からしたらそんな作品を知りたいとも思わないだろう。
そしてそういう作品を開発をする会社、という認識も生まれる。


つまり厳しい査定が下れば、市場も狭くなるし、今後のファンに対する態度も気を付けなければならなくなる。
パブリッシャ―からしたら面倒だし、利益も望めなくなるかもしれないし、ちゃんとした理由がない限りは「CERO:Z」をやすやすと認めなくはないと思う。



しかし、個性を重視するようになっている世の中・ファンのニーズとしても、「CERO:A」よりも「CERO:Z」のほうが興味がそそられるだろうし、コアなファンがついてくれるほうが将来的な利益も望めるかもしれない。
つまり、会社/個人がどういうスタンスで仕事をしたいのか、というその一点に尽きる問題ではある。


CERO:Aは素晴らしい」という感想になったのは、とにかく僕の私見でしかない。
子供が楽しめる、というのは尊い情景であるように僕は思うのだ。


最近好きなゲームで「JUDGE EYES」というゲームがある。少し前の作品だが、キムタクが主人公ということで大きな話題になったゲームである。
ヤクザ相手にキムタクがばったばったとなぎ倒し、暗闇に隠された真実を追う探偵アクションゲームである。
確かに物語も面白いし、キムタクがおっかないヤクザをぼこぼこにするのは非常に爽快感がある。「CERO:D(17歳以上)」だからこそできる流血表現・過激な表現もある。


龍が如く」という有名な極道シリーズがあるが、その開発チームがつくった新シリーズが「JUDGE EYES」である。「JUDGE EYES」でキムタクが主役という話題があったことで、社会的な認知も広がり、おそらく「龍が如くシリーズ」の売り上げも伸びたんじゃないかと思う。
コアな客層向けであるものの、うまく他作品への流動も促す良い作品であるように思われる。



同時に2015年発売の「ポケモン超不思議のダンジョン」というゲームをやっている。
2005年発売の「ポケモン不思議のダンジョン」を思い出し、その最近の作品をやりたくなった。
やってみると当然「CERO:A」の通り、過激な表現はまったくない。むしろ小学校低学年から楽しめる、絵本のような話の展開であった。
20を超えた私がやれば、当然物足りないのだが、それでもそれはそれとして楽しい。
2005年当時はゲームクリアで泣いた気がするが、そういう人のコアになる部分は幼少期に形作られるのだろう。
やっぱり今回も非常にハートフルで、ゲームシステムに不満はあるけれど、それ以上に物語をはやく見届けたい気持ちでいっぱいである。


人の核に残るゲームってなにかを考えた時に、結局子供のころに遊んだ記憶やそれに近しいなにかを感じた時であるように思う。
確かに「JUDGE EYES」だってめちゃめちゃ面白いし、そういうものをつくっていたいとも思う。
ただ、「あなたが好きなゲームトップ3」を考えた時には出てこない。それよりも「ポケモン」が出てくるだろう。
つまり、僕としては全年齢対象のゲームとして開発し、子供に遊んでもらってその子のその人の人生に深く跡を付けてやりたいと思う。
そして、そういうピュアなところをターゲットにできれば、大人だってひっかかるものがあるはずだ。



これは完全に僕の主義でしかない。
とにかく多くの人に遊んでもらって、心の核になにかを残し、人生を揺さぶりたい。
そう考えると、「CERO:DやZ」のような過激な表現は、話題や映えにはいいかもしれないが、刹那的な消費でとどまってしまうように思う。
ピュアで汚してはならないものこそ、消費せずに残り続けるんじゃないか。
だからこそ、限られた表現の中で思考錯誤し、感情が極まる瞬間を作り出すことの素晴らしさを感じないではいられないのだ。


大衆受けする、というとネガティブかもしれないが、万人の心に響くからこそコアなファンも長く残り続けるコンテンツとも言えると思う。
あくまで僕はこどもに寄り添いたい。そういう方向でキャリアを進めるのがよろしかろう。



毎日投稿と言い出したタイミングで、仕事が忙しくなってしまった。
仕事を言い訳に継続しないのは一番したくないことだったが、ようやくその意味を体験できた。
今後のペースがどうなるかはわからないが、できるかぎりは投稿するつもりである。
男だけど二言・三言合って申し訳ない。